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犯人隠避での前特捜部長らの逮捕、新たな冤罪の可能性はないのか。 [刑事裁判問題]

(1) 10月1日、最高検は、前田検事によるFD改ざん事件で、大阪地検の前特捜部長・大坪氏と、前副部長・佐賀氏を、犯人隠避罪で逮捕した。

(2) しかし、大丈夫だろうか。今回の逮捕、起訴が冤罪だった、というのでは、最高検が世間体や組織自体を守るために罪なき人を逮捕、起訴したことになり、検察庁全体の壊滅的損害になるからである。

(3) 佐賀前副部長は、「犯人隠避など全くしていない、上司にすべて報告し、上司の指示どおり行動していることがどうして犯罪になるのか」と言っているとのことである。それもそうだろう。

 また、大坪前部長としても、自身が法的解釈や証拠評価、あるいは捜査の必要性等の判断を誤り、前田検事の逮捕等が不要だ、と思って前田検事を逮捕等しなかったとすれば、犯人隠避でもなんでもない、ということになる。

(4) それとも、決定的な物証でもあるのだろうか。いずれにせよ、今後、起訴に至るまで、今度こそ慎重かつ適正な捜査、起訴判断が必要なことは明らかである。


大阪地検特捜部のFD改ざん事件、故意に改ざんしたが、刑事裁判に影響を与えるつもりはなかったのでは。 [刑事裁判問題]

(1) 大阪地検特捜部の検事が、郵便不正事件の捜査で証拠のフロッピーディスクを改ざんした事件で、史上初めて、最高検が直接、大阪地検の担当検事を9月21日に逮捕した。

 要するに、大阪地検の不祥事だと大阪高検が捜査に入るが、現在、当時の大阪地検の幹部が大阪高検の幹部になっているため、最高検が乗り出すしかなかったものである。

(2) まあしかし、よく解らない事件である。FDを改ざんして裁判に有利に悪用しようと思ったのなら、所有者に返してしまったなら意味がない。また、すでに他の検事や上司に告白しており、改ざんしたFDを裁判で使用しようとは思っていなかったと言わざるを得ないのではないだろうか。

(3) 結局、故意に改ざんはしたものの、裁判で使用するにはさすがにためらわれて、同僚に報告して上司に発覚し、その前に検察庁内で問題にされるのを防ぐために機先を制して所有者に、裁判中にもかかわらず郵便で返す、などというおかしな行動を取ったのではないだろうか。

 その後、大阪地検内で問題にはなったが、当該FDがすでに庁内に存在しない、ということもあって、それ以上の追及を行わず、上司は闇に葬ることにした、ということであろう。

(4) 当該検事は、証拠の現物を故意に「破棄」したのだろうだから、証拠隠滅罪の成立は免れないだろうが、刑事裁判には正しい証拠が提出されるようにしていたとすれば実質的には大した罪ではない。但し、検事が捜査に関して犯罪を犯したというだけで、極めて重大な事態ではあるが。

(5) ということで、一番問題になるのは、逮捕された当該検事ではなく、この事件を闇に葬ろうとした上司、当時の特捜部長らだったのではないだろうか。

 いずれにせよ、検察を挙げて、事件の全容が明らかにされなければならない。


裁判員裁判での有名事件判決、報道規制よりも裁判員への「白紙で臨む」説得に重点を置くべきだ。 [刑事裁判問題]

(1) 9月17日、東京地方裁判所は、一緒に合成麻薬を服用していて様態が悪化した女性を放置して死なせたとして、保護責任者遺棄致死罪で起訴された有名男性タレントに対して、裁判員裁判手続において、保護責任者遺棄罪、つまり致死の責任を認めず、懲役2年6か月の有罪判決を言い渡した。

(2) 初めての有名人の事件を一般人である裁判員が裁くということで、事前の嵐のようなバッシング報道のあとで、裁判員が冷静に事件を裁けるか、問題になったが、裁判員の記者会見等によると、一応、適切に裁けたようである。

(3) 裁判員裁判との関係で、裁判員に予断を与えるような報道は慎むように政府は要請しているが、無罪を主張するその被告人について、反省が足りないなどと、平気で、勝手に有罪だと決めつけたコメントがどんどん放送されていた。

(4) 思うに、特に有名人について、予断を与えないような報道などというのは、初めから無理があるように思われる。裁判員裁判では、裁判員がすでに、被告人について「有罪に決まっている」、「悪い奴に決まっている」という強い予断を持っていることを当然の前提として、裁判官は、その予断を徹底的に、くどいほど断ち切るような、事前の、また、裁判の過程でも何度でも、折りにつけて説得、説明することが必要であると考える。


福知山線事故、歴代社長の起訴は不当だ。 [刑事裁判問題]

(1) JR福知山線事故で、検察審査会の起訴意見を受けて、4月23日、JR西日本の歴代3社長が業務上過失致死罪で起訴された。

 このブログでは、一貫して強制起訴制度を批判しているが、それはともかく、今回の起訴は不当である。

(2) 起訴状の概要は以下のとおりである。

 JRでは東西線の開通にあたり、平成8年12月に、本件の線路のカーブを600メートルから304メートルにする線形変更工事を実施した。その際に制限時速を95キロから70キロに変更したから、周辺の120キロとの差が50キロに広がった。また、ダイヤ改正により、快速列車の本数が1日34本から94本に増加したためこれまで以上に運転士には定刻運転の要請が強まり、脱線転覆する危険性が差し迫っていた。

 また、同様のカーブで速度超過による脱線事故が函館線であったことが報告されていた。そうである以上、ダイヤ改正に際して自動列車停止装置(ATS)を整備すべきであった、というものである。

(3) しかし、カーブがきつくて事故が起こりやすい路線くらい、日本中にいくらでもあろう。カーブに一定の速度を超えて進入すれば脱線の危険が高まるのは当然である。函館線で同様のカーブで事故が起こったからといって、「制限速度遵守の通達」を出せばいい問題であって、直ちに、自動列車停止装置を整備すべきということにはならないはずである。

 そもそも、カーブに制限速度を超えた危険速度で入ってくる運転士がいることは極めて想定外の事実である。あるいはバスなど、運転士により常に事故が起こりかねない速度を出す危険に直面しているが、その危険を排除するシステムは特にないが放置されている。

 規則を無視するような運転士の存在や、その他、どの程度の危険を想定し、どのような基準で自動列車停止装置を整備すべきかは、一概に決めることはできないもので、今回の事故の前に整備するべきだった、などとはおよそ言えないはずである。

(4) あるいは、同じようなカーブがあるのに自動列車停止装置のない路線を持つ鉄道会社、完全な事故防止策を取りようのないバス会社の社長はいつ死亡事故が起こって刑事責任を問われるかもしれない状態を放置しているということになる。また、国交省とすれば、同様の箇所の有無を直ちに調査して、自動列車停止装置を付けない限り、列車の運行を禁止すべきだ、ということになるが、そうでない状態が容認されていることは明らかだろう。

(5) 結局、本件の状況において、本件事故の箇所に自動列車停止装置を設置すべきだったのにその義務を怠った、というのはいくら何でも論理の飛躍であって無理がある。また、歴代社長3人とも起訴し、3人とも義務を怠ったというのは、いくらなんでもアバウト過ぎるものであり、このことにも本件の起訴が被告人の過失を正しく評価していないことを示す結果にもなっているように思われる。

 本件の起訴は不当である。


明石市歩道橋事故での、検察審査会による起訴決議を受けた起訴は不当である。 [刑事裁判問題]

(1) 明石市の歩道橋事故で、元明石署副所長が、検察審査会による起訴強制制度により起訴された。

(2)  当ブログでは、以前から、検察審査会による起訴強制制度は、裁判官や検察官の手を経ない、市民の意見だけで起訴を認めることから不当であると主張している。http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2009-05-31

 裁判員制度でも裁判官が一人以上賛成しないと有罪にならないことからしても、起訴には法律家の賛同が必要で、市民の意見だけで人を被告人席につけることはできないようにすべきだと考える。

(3) 今回の事件も、行きと帰りの群衆が歩道橋で押し合って、折り重なって倒れてて多数の方が亡くなったというものであり、一般的にはおよそ予想困難であったと思われる。すでに直接の担当者か起訴されているが、今回の副所長は、直接の担当者でないのであるから、事態が具体的に進んだ段階での間違った指示などというものも考えられず、もっぱら、一般的注意義務に基づいて、このような事故一般が起こらないように、もっと注意すべきであったというものであり、そのような者を起訴すべきかどうかは、慎重にも慎重を期して決せられるべきである。

 このような事件について、市民の意見に基づいて、とりあえず起訴して、裁判の場で真実を明らかにしようという姿勢自体が、「不当に被告人とされない権利」を害する不当なものだと考える。

(4) 検察審査会による起訴強制制度は、そもそも廃止されるべきであるが、特に、一般的監督義務違反による過失致死事件等では、慎重にも慎重を期して起訴されるべきだと考える。


警視庁公安部長の「オウムの組織テロ」発言で、鳩山内閣は責任を取れ。 [刑事裁判問題]

(1)国松孝次警察庁長官(当時)が平成7年3月に狙撃された事件が、3月30日に時効を迎えた件で、警視庁の青木五郎公安部長が、「事件は、オウム真理教の信者グループが麻原死刑囚の思想の下、組織的、計画的に敢行したテロである」と断言して発表した。

(2) 犯罪にかかわることについて、捜査機関が、起訴もせずに特定の宗教団体の組織を「犯人」と決めつけることが違法、不当なことは明らかである。青木公安部長は、真実を社会に知らしめることの公益性を主張したが、国家機関、特に捜査機関が、法で定められた手続を経ずに人の名誉を傷つけることを行うことが公益に反することは明らかである。

 名誉毀損は、犯罪事実の立証を行って初めてその違法性が阻却されるが、犯罪事実の立証ができないから起訴できなかったはずで、その不当性は明らかであろう。

(3) 青木公安部長の行為が不当なのは明らかであるが、政府の機関である警視庁公安部が行ったこの違法行為、権力犯罪について、警視庁は自らその違法性を認めないようであるが、それで政府として許されるものではない。

(4) このような違法行為を許した政府として、まず、中井国家公安委員長が責任を取らなければならないはずである。鳩山内閣として、中井大臣を更迭し、二度とこのような権力犯罪を許さないことを宣言しなければ、鳩山内閣も同罪であると考える。


裁判員の忌避は被告人、弁護側の当然の権利である。 [刑事裁判問題]

(1) 12月26日の読売新聞夕刊に、被告人、弁護側からの裁判員忌避が229人もあった、などとして、忌避の多さを問題にしている。奈良地裁で11月20日に行われた選任手続では36人中21人が除外される事態になった、として批判している。

 また、田口守一早大教授の、「候補者を忌避することは裁判員として裁判に参加する国民の権利を奪うことになる。差別につながるから抑制すべきだ。」とのコメントも掲載されている。

(2) しかし、裁判員法上、裁判員の忌避は理由を明らかにすることなく弁護側、検察側双方に認められている。アメリカでも、双方とも自己に有利になるように、数が許す限り、黒人をすべて忌避する等(逆も当然ある)の手段も普通に取られるものである。

(3) 田口教授は「裁判員として裁判に参加する国民の権利を奪う」とまでコメントしているが、裁判員として裁判に参加する権利と言っても抽選で選ばれた人だけの権利であって、そもそもこの権利は個々の国民に与えられた権利ではなく、いわば一般国民から適切な裁判員体を出す権利を国民全体として持っているだけというべきである。

(4) これは、被告人の、正しい裁判を受ける権利という、極めて重大な権利との比較で考えなければならないことである。つまり、専門家ではない、一般国民に裁かれる場合、職業裁判官に裁かれるよりも誤審、不適切な量刑をされる恐れが高まることは明らかである。

 本来、すべての被告人には、職業裁判官の正確な裁判を受ける権利があるとも考えられるところ、国民の参政権という観点から、裁判の正確性を多少、犠牲にしてでも国民を裁判に参加させる裁判員の制度では、適切な裁判員を選任すべきという要請は、裁判員になれる国民の権利よりも優先されるべきは当然なのである。

(5) 裁判員忌避は差別につながると田口教授は言うが、知的能力の著しく低い人は、他の一般的権利において差別されるいわれは全く無いのであるが、こと裁判員になる権利としては事実上奪われているとしてもやむを得ないところである。

 複雑な論理展開から、何としても無罪を勝ち取りたい被告人としては、知的能力の低そうな人から順に忌避していく、などということがあっても何の問題も無いものである。

(6) 以上のとおり、裁判員の如何によっては、本来、無罪になるべきところが、あるいはもっと軽い刑になるべきところがそうはならない恐れのある被告人としては、自由に裁判員を忌避する権利が認められて当然なのである。

 それが、誤審の可能性は高まることを犠牲にして、自分たちの裁判に参加する権利を優先させた裁判員制度という国家システムにおける当然の要請であると考えるものである。


JR脱線事故で、検察審査会による、歴代3社長の「起訴相当」意見を批判する。 [刑事裁判問題]

(1) 兵庫県尼崎市で平成17年4月に、JRの脱線で乗客106名が死亡した事故で、神戸第一検察審査会は、業務上過失致死傷罪で告訴され、神戸地検が不起訴としたJR西日本の井出正敬元社長ら歴代3社長について、「危険性が格段に高まった現場カーブへのATS・自動列車停止装置の整備を指示しなかった」として、「起訴相当」決議を行ったが、不当である。

(2) ATSを、どのような基準でどのような場所に、いつ付けなければならないかについて、明確なルールがあるわけではなく、現在でも全国に、危険な場所に未設置のところは多数存在するものである。

 山崎前社長が起訴された時に当ブログでも指摘したがhttp://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2009-07-08、本件事故は、急カーブで制限時速が70キロに規制されているところを、46キロもオーバーした、運転士の異常な運転により生じたものであり、そのようなものまでカバーしなければならないとすれば、全国のすべての鉄道について、ATSの設置が終わるまで運行できないことになり、極めて非現実的である。そうしない間に事故が起こった場合、各鉄道会社の社長に刑事責任が問われることになってしまうが、それならば事前にそう、警告すべきである。

(3) しかも、平成21年に検察審査会法が改正され、2度、起訴相当意見が出た場合は、起訴が強制されるシステムになっている。そのことについての批判はすでに当ブログで行っているが、http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2009-05-31検察審査会の意見は極めて重い。単なる市民の声ではなく、人を刑事被告人の身にしてしまう権力を持っていることを十分認識し、慎重にも慎重な判断が求められるというべきである。

(4) 本来、起こるはずのないような事故にまで、多額の費用をかけて防止する、というのは不相当である。どこまでが不相当と考えるかは、裁量の余地がある。結果的にその裁量が誤っていた場合、社会的責任を問われたり、会社として賠償責任が問われるのは当然だとしても、刑事責任を問うのは、通常の人間としては、決してあってはならないレベルで判断が間違っていた場合に限られるべきである。

(5) 神戸第一検察審査会は、刑事責任を問うべき過失と、社会的責任を負うべき過失の区別ができていないというべきである。今回の「起訴相当」意見は不当である。


JR福知山線事故での山崎社長の起訴は不当である。 [刑事裁判問題]

(1) 3年前のJR西日本福知山線事故で、現社長の山崎正夫氏が業務上過失致死容疑で7月8日に起訴された。

 容疑は、平成8年に現地を600メートルから300メートルのカーブに線路を付け替えた際、その頃、半径の小さいカーブの速度超過のミスが各地で問題になっていたにもかかわらず、自動列車制御装置・ATSを設置しなかった、当時、鉄道本部長だったときの過失を問われているものである。

(2) しかし、事故は、その9年後の平成17年に、制限速度70キロを46キロもオーバーした運転士の異常な運転により生じたものである。

 それを、9年前の工事の時点での、設置が義務付けられているわけでもないATS装置を付けなかった、などということを過失として捉えて起訴するのは、全く理由が無い、不当起訴だと考える。

(3) 直接の責任者が判明しない場合、誰かに責任が無いはずがない、として管理責任者が起訴されたりすることがあるのは判るが、本件は、急カーブを制限速度の1.6倍の猛スピードで侵入したのだから、大事故が起こって当然である。

 制限速度を大幅に超えてカーブに侵入したら、大事故が起こるような場所は他にもいくらでもあるものと思われる。そのすべてにATS装置が無いならば、結果が未発生なだけで、未設置自体が重大な過失だということになってしまう。

(4) 問われるべきは運転手の無謀運転、ないしは、無謀運転を止められなかった管理責任の方であって、9年前の工事に最新の装置を付けなかったことの過失を問うなどというのは、事件の本質からほど遠いものである。

(5) 結局、本件は、運転手の異常行動から起こったもので、その責任がすべて会社にあるのは当然であるが、誰かに刑事責任を負うほどの責任があったのか、ということとは全く違う話である。

 それを、現在の社長で、なんとなく、誰か1人、起訴しないと収まらないだろうとの世論におもねって山崎氏を起訴したようにも思われるもので、本件起訴は極めて不当であると考える。


人間の行動は遺伝と環境で決まるのだから、安易に死刑は科せない、という決定論的立場 [刑事裁判問題]

(1) すでに、安易に死刑を求める考えに反対である旨、http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2009-06-08また、死刑判決とその執行には慎重の上にも慎重であるべきだということは、http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2009-06-07すでに主張したとおりであるが、死刑判決その他、刑罰について論じる際に、是非考えておかなければいけないことに犯罪の「決定論的立場」がある。

(2) 極めて不正確であるが、「決定論的立場」とは、どんな犯罪者の行為も、その遺伝と環境により決定されていたのだから、彼を非難することはできず、教育等による是正、矯正ないしは隔離による新たな犯罪防止が可能な限りそうするし、それが不可能ないし不適切な場合に限って死刑により社会から完全に排除する、といったものである。

(3) つまり、どんな「極悪犯人」であっても、彼と全く同じ遺伝と環境で育った場合、誰でも同じ犯罪を犯してしまうのであるから、彼を道義的に非難することはできないということである。

 これは、純粋な科学の問題であるが、人間も生物である以上、遺伝と環境が同じであるという条件を付したならば、同じ生物体が育ち、同じ行動を取る、ということ以外にあり得ないという、ある意味で単純なものである。

(4) たとえば、全く同じ遺伝を持った双子、甲と乙のうち、片方の甲だけが犯罪に走った場合、それは甲の育った環境が乙と、少し違って悪かった、としか科学的には言いようがない、ということである。乙が、甲と全く同じ環境で育ったならば、全く同じ犯罪に走ったであろう、ということである。

 あるいは、両親がいないなど、劣悪な環境でも立派に成人したなどという場合は、同じ環境でも、持って生まれた強固な意志で悪い環境を克服したのかもしれないし、両親に代わって、その人を導いてくれる「人」や「別の、特別のいい環境」に恵まれたのかもしれない。

 なにせ、それらも遺伝や環境の一種であり、あるいは、誘惑に負けない強い意志の「人格形成責任」が問題にされたりもするのであるが、そのような意志や人格も、遺伝と環境により、形成されていく、としか言えないものであり、決して、本人の責任ではないのである。

 よって、犯罪ないし犯罪者に対する倫理的非難などということもあり得ない、ということになる。

(5) 結局、刑法でいう「違法性」というのは、人間の意思と行動は決定されている中で、社会としての否定的評価の類型化であり、犯罪による威嚇や、社会からの否定的評価が理解できて自らの行動をそれに沿うように律することができる能力を「責任能力」と呼ぶ、などという調整がなされている。

(6) これまで運が悪かった、悪い遺伝と環境の元で育った結果、人を殺してしまっただけなのに、彼を、人間の風上にもおけない、などとして非難して殺してしまうなどというのは、決定論的立場からは、社会にとっての「邪魔者」を社会から排除する、という意味しか持たないものなのである。

 あたかも彼を、自分自身で矯正、更生が可能であったのにそれをしなかったとして倫理的に非難するのは極めて非科学的な考え方であるとするのである。

(7) 思うに、彼のような遺伝のもとで生まれて、その時、その時、彼の環境で育ったならば、科学的には、彼のようにしかならない。このことに科学的に反論できるか、と言われれば、正しい、と認めざるを得ないと思われる。

 そのように考えれば、彼の犯罪が凶悪であればあるほど、また、無反省の程度がひどければひどいほど、よほど悪い遺伝と環境のもとで、それらを克服する意志を形成する機会も与えられなかったもので、極めて気の毒な存在なのであるから、そういう犯罪者の命を断って、社会から排除してそれよし、とすることはできないはずである。

 社会に戻すのはなかなか難しいとしても、少なくとも刑務所等で最後まで、つまり彼が死ぬまで矯正の努力を行うというのが、彼に対する、一般の人間、つまり、彼のようには悪い遺伝、環境のもとで育ってこなかった人間の、社会的、道義的責任であると考える。

(8) この、遺伝と環境という言葉を、「神が創りたもうた」などと言い換えれば、キリスト教的には理解されやすいのかもしれない。そのような彼も、「神が創りたもうたもの」なのであるから、人間の手でその命を抹消する、などというのは、神への冒涜なのであろう。

(9) 人間は皆、たとえ凶悪犯人であろうと、遺伝と環境により、行動が決定されるのであるから、その他の者、つまり、そのような遺伝と環境に無かったから犯罪を犯していない者から、彼を死刑にせよ、というのは、倫理的な理由からはおかしいのである。

 死刑判決を考えるにあたっては、以上の、「決定論的立場」考慮に入れるべきだと考える。


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