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憲法解釈の変更により、集団的自衛権を認めるなど、言語道断である。 [憲法問題]

(1) 現在、安倍内閣は、閣議決定により憲法解釈を変更し、現憲法下で集団的自衛権を認めようとしているが、言語道断であり、決して許されないものである。

(2) まず、戦争放棄、戦力の不保持を定めた憲法9条のもと、自衛隊が意見であるかどうかについては、最高裁判所は、「自国の平和と安全とを維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であつて、憲法は何らこれを禁止するものではない。」として、自国防衛のための最小限の実力を保持するのは、国家固有の権能であって、憲法といえどもそこまで禁止する趣旨ではないとしているものである。

(3) しかし、それは、自国の存立を全うする、ということであり、他国の安全にもかかわる集団的自衛権ということになると、話は全く違ってくるのは明らかである。

 そもそも他国となると、正義のための戦争かどうか、ということ自体、定かで無い場合も出てくるもので、日本が侵略された場合、侵略国に対する被害国の防衛行為という、本来的自衛権の行使という構図が描けないものである。

(4) たとえば、正義の名のもとに米軍がイラクに侵攻し、イラクが米軍に反撃したようなとき、日本が集団的自衛権行使の名のもとにイラクを攻撃するようなことも生じてくる。米軍は、世界中で戦闘行為を行う可能性のある軍隊であるから、そこと集団的自衛権を行使しあう、ということになれば、日本も、世界中で戦争を行う国になってしまうということである。

 米軍のイラク侵攻に自衛隊が関与する可能性、機会ならば、それは小さかったかもしれないが、舞台を北朝鮮に変えた場合、自衛隊が米国の起こした戦争に巻き込まれる危険性は極めて現実的なものとなってくるものである。

(5) 安倍内閣は、そこまでのことはできないように法律で定めると反論しているが、反論になっていないことは明らかである。

 なぜならば、まさに今回、憲法解釈が変わり、前記の各行為が、憲法上許されることになり、たまたま今回は、法律でこれを禁じるというだけだからである。次の内閣が法律を改正することによりこれらのことが、「必要最小限」という、「自国防衛のための」という、絶対的縛りのない中でほとんど意味のない制限がついているだけで、本格的な武力行使が、憲法上、容認されたものとして、世界中でできるようになるのである。

(6) また、共同作業中の米軍への攻撃に対して、防衛行為として、他国のミサイル基地への自衛隊による反撃が許されるのであるから、その後、奥地への侵攻が許されないとしても、軍事行動、爆撃等として、十分、戦争行為として認められる行為ができるものであり、それ自体で極めて重大なことである。

 また、その第三国が日本に対して反撃を加えることも十分に考えられ、日本として、米国が起こした戦争に正面から巻き込まれる危険性のあるという点、また、米国が始めた侵略戦争についても、日本が米軍を守るために被侵略国を攻撃することになる点においても、平和主義国家であるとの看板を完全に下ろすことになるというべきである。

(7) これらの議論の際に、砂川事件の最高裁判決(昭和34年12月16日)が引用されているので、以下に掲げておく。

 一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。


 そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

二、次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。
 しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和二七年四月二八日条約五号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。

 ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

三、よつて、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあたかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起こされたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。

 果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。(なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和二七年二月二八日その調印を了し、同年三月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和二七年三月二五日に行政協定が憲法七三条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月二六日に行政協定は安全保障条約三条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法七三条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約三条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。)

 しからば、原判決が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法二条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。
 よつて刑訴四一〇条一項本文、四〇五条一号、四一三条本文に従い、主文のとおり判決する。


山本太郎議員の天皇への手紙問題、議員辞職を求めるのは時代錯誤である。 [憲法問題]

(1) 世耕弘成官房副長官が、山本太郎参院議員が10月31日の秋の園遊会で天皇に手紙を渡したことを批判し、「自ら出処進退を明らかにするべきだ」と自発的な議員辞職を求めたとのことである。

(2) この問題は、山本議員が、参議院議員としての自らの政治的立場と、天皇の権能や憲法についての自らの無知を露呈するもので、非常に恥ずかしいものであることはすでに指摘したとおりである。

 http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2013-11-01

(3) しかし、「天皇の政治利用」は全くもって「不能犯」であって、山本議員の今回の行動により天皇の政治的中立性が侵された、ないし侵される危機に瀕したなどということでは決してない。

 あるいは、一連の事件は山本議員の全くの無知から来たもので、天皇の「政治的中立性」をねじ曲げようなどという意図は全く無かったことは明らかであろう。

(4) 議員辞職は不可避だ、とする意見は、結局、明治憲法下の天皇の感覚で、「不敬」という観点から、そう言っているものと思われる。しかし、現憲法下において天皇への不敬は、「手紙を渡す」といったことで問題になるようなものではないはずである。また、国民の代表たる参議院議員の地位は、無知だということでは奪ってはならないものである。

 この問題の冷静かつ正確な議論を期待する。


山本太郎議員も下村文相も、天皇の憲法上の地位を知らないのか。 [憲法問題]

(1) 山本太郎参院議員が、10月31日の園遊会で、天皇に対して原発問題に関する手紙を、直接手渡したことが問題になっている。

 これは、いわゆる「直訴」だと思われるが、一般国民ならともかく、山本氏は参院議員である。政治権力は天皇よりも大きいのである。「天皇陛下にお知らせして、陛下のお力でこの問題を解決してもらおう」、などと思う方がおかしい。自ら、議員として、国会その他で、実現に向けて行動すべき問題である。

 あるいは、天皇にこの問題で山本議員の都合によいような発言なり行動をしてもらい、原発反対運動を進めようと思ったなどというならば、憲法上、許されない天皇の政治利用ということになるし、そもそも、人々の声と力で原子力行政を動かそうとしている原発反対派の風上にもおけない、民主主義の制度を否定する、決して許せない行動だということになる。

(2) 一方、山本議員の行動について下村文科相は、「これを認めれば、いろんな行事で天皇陛下に手紙を渡すことを認めることになる」と指摘したとのことである。

 文相は、明治時代の足尾銅山鉱毒事件を引き合いに出しながら「田中正造が(明治天皇に)直訴して大問題になったことに匹敵するようなこと。こういうことを安易に看過するようなことがあってはならない。非常に重いことだ」と述べたとのことである。

 しかし、まさに明治憲法下では天皇は不可侵の神的国家元首であり、民の声を汲み上げるシステムは憲法・法律で定まっているのに、そのプロセスを無視して直接天皇に要請に及ぶなどというのは不敬、不敬罪そのもので、許されない行動だったということだろう。

 いわば、絶対的権力を持っているがゆえに、田中正造の行為は許されないものだったのである。

(3) しかし、現在の憲法下の天皇は明治憲法下とは全く異なる。議員が直接、天皇に要望書を渡しても不敬などというものでもない。政治権力を一切、持たない、政治的には完全に中立でなければならない天皇を、自らの政治運動に寄与すべく利用しようとしたことが不当なのである。

 あるいは、現在の政府や宮内庁の管理のもと、あのような山本議員の行動で天皇の行動が歪められるわけがない、という信頼は国民からも得られていると思われる。

(4) 問題なのは山本議員の考え方であり、天皇や皇室に悪影響が及ぶ、というものでは決してないはずである。

 山本議員も下村文相も、現在の天皇の憲法上の地位を正確に理解してほしい。天皇は一切の政治権力を持たないし、政治に特定の影響を与えてはいけないのである。「天皇は神聖ゆえに直訴してはならない、侵してはならない、不敬だ」、などというものでは決してない。天皇は、民主的コントロールが及ばない憲法上の存在なのであるから、天皇に政治力を発揮させようなどという、民主主義を無視した行動を取ってはならないのである。


日本維新の綱領、日本国憲法を根本的に否定する姿勢は、いかにも憲法無視の橋下氏や石原氏らしい。 [憲法問題]

(1) 日本維新の会が綱領を発表した。綱領とは言うまでもなく政党の存在目的を示すものであるが、その綱領の第1項は以下のとおりである。

1.日本を孤立と軽蔑の対象に貶め、絶対平和という非現実的な共同幻想を押し付けた元凶である占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる。

(2) しかし、日本は世界にとって軽蔑の対象なのだろうか。平和憲法のもと、非核三原則や武器輸出禁止、唯一の被爆国としての非核の訴え等、「非現実的な共同幻想」などではなく、何のてらいもなく軍拡競争を続ける強国に対して自ら率先して平和を説く際の、非常に説得力のある平和の根拠だったのではないだろうか。

(3) 平和憲法のもと、近隣諸国にも配慮しつつ、日米安保を中心に自衛隊を徐々に整備し、国民の支持も得つつ、平和憲法と自衛隊を共存させているとも言えるものである。今の憲法でも今の自衛隊を持てて、それはそれでいいのではないか。

(4) このような現在に、 「占領憲法を大幅に改正し、国家、民族を真の自立に導き、国家を蘇生させる。」などと言われると、平和憲法を撤廃して核武装をするなどして軍備を強大化し、近隣諸国を軍事力で屈服させ、それで初めて民族が自立できると考えているように思える。

(5) また、このような表現は、平和憲法だけではなく、現在の憲法理念すべてを根本的に否定しているように思えるが、これは、橋下氏や石原氏の、憲法感覚、人権感覚を無視した日頃の言動そのものである。

 このような集団に、憲法96条の、国会による改正発議要件を、3分の2から過半数に緩める改正を許せば、あとは彼らがどんな憲法を作って、どんな日本に変えてしまうか、判らないもので、決して許してはならないものである。


君が代起立・斉唱命令違憲問題、何もせずに座ったままで、式典の秩序をことさらに乱さない行為まで処分するのは違憲だとの「宮川反対意見」に賛成である。 [憲法問題]

(1) 君が代起立・斉唱命令違憲裁判で、5月30日に最高裁第二小法廷が合憲判決を下したのに続いて、6月6日、第一小法廷も、ほぼ同じ理由で合憲判断を下した。

 しかし、第一小法廷判決では、弁護士出身の宮川光治裁判官が、末尾記載の反対意見を述べている。当ブログとしては、基本的に宮川意見に賛成である。

(2) 結局、二つの最高裁判決は、君が代起立・斉唱命令は、学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作としての国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするもので、本命令は、教育上の行事にふさわしい秩序と確保と式典の円滑な進行を図るものであるから、必要性、合理性が認められるなどとして、合理性が認められ、合憲である、とするものである。

(3) しかし、公務員に思想・信条の自由があるのは当然であるところ、宮川反対意見でも指摘しているように、たしかに、思想・信条の自由があるといえども、教室における実際の教育の場で、国が決めた、君が代を国歌とすることを否定するような教育を行うことは許されないし、また、卒業式という儀式の場において、ことさらに自らの思想・信条としての「君が代・日の丸否定」をアピールすることも許されないものである。

(4) しかし、そうではなく、君が代の起立・斉唱といえども、単なる儀式の場における儀礼的な所作だというのであるから、君が代や日の丸に敬意を表する、起立・斉唱という行為を強制されることが耐えられないという教員が、静かに座ったままでいる、という行為を処分するのは、特に儀式の秩序や進行を乱したりする行為ではないのだから、行き過ぎであると考える。

(5) 宮川反対意見も指摘するとおり、国旗・国歌法制定の際に政府の国会答弁では、国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないことが示されており、同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものであることからしても、最大限に尊重されるべき思想信条の自由たる、当該教員のそのような平穏な心の表現の自由を制限する根拠として、起立・斉唱命令違反による処分は、発生させた結果と表現の自由との関係からしてバランスを失するものであり、そのような処分は違憲であると考える。

 裁判官宮川光治の反対意見は,次のとおりである。
本件は少数者の思想及び良心の自由に深く関わる問題であると思われる。憲法は個人の多様な思想及び生き方を尊重し,我が国社会が寛容な開かれた社会であることをその理念としている。そして,憲法は少数者の思想及び良心を多数者のそれと等しく尊重し,その思想及び良心の核心に反する行為を行うことを強制することは許容していないと考えられる。このような視点で本件を検討すると,私は多数意見に同意することはできない。まず,1において私の反対意見の要諦を述べ,2以下においてそれを敷衍する。


1 国旗に対する敬礼や国歌を斉唱する行為は,私もその一員であるところの多くの人々にとっては心情から自然に,自発的に行う行為であり,式典における起立斉唱は儀式におけるマナーでもあろう。しかし,そうではない人々が我が国には相当数存在している。それらの人々は「日の丸」や「君が代」を軍国主義や戦前の天皇制絶対主義のシンボルであるとみなし,平和主義や国民主権とは相容れないと考えている。そうした思いはそれらの人々の心に深く在り,人格的アイデンティティをも形成し,思想及び良心として昇華されている。少数ではあっても,そうした人々はともすれば忘れがちな歴史的・根源的問いを社会に投げかけているとみることができる。


上告人らが起立斉唱行為を拒否する前提として有している考えについては原審の適法に確定した事実関係の概要中において6点に要約されている。多数意見も,この考えは,「『日の丸』や『君が代』が過去の我が国において果たした役割に関わる上告人ら自身の歴史観ないし世界観及びこれに由来する社会生活上ないし教育上の信念等ということができる」としており,多数意見は上告人らが有している考えが思想及び良心の内容となっていること,ないしこれらと関連するものであることは承認しているものと思われる。

上告人らが起立斉唱しないのは,式典において「日の丸」や「君が代」に関わる自らの歴史観ないし世界観及び教育上の信念を表明しようとする意図からではないであろう。その理由は,第1に,上告人らにとって「日の丸」に向かって起立し「君が代」を斉唱する行為は,慣例上の儀礼的な所作ではなく,上告人ら自身の歴史観ないし世界観等にとって譲れない一線を越える行動であり,上告人らの思想及び良心の核心を動揺させるからであると思われる。第2に,これまで人権の尊重や自主的に思考することの大切さを強調する教育実践を続けてきた教育者として,その魂というべき教育上の信念を否定することになると考えたからであると思われる。そのように真摯なものであれば,本件各職務命令に服することなく起立せず斉唱しないという行為は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるとみることができ,少なくともこれと密接に関連しているとみることができる。

上告人らは東京都立高等学校の教職員であるところ,教科教育として生徒に対し国旗及び国歌について教育するということもあり得るであろう。その場合は,教師としての専門的裁量の下で職務を適正に遂行しなければならない。しかし,それ以上に生徒に対し直接に教育するという場を離れた場面においては(式典もその一つであるといえる。),自らの思想及び良心の核心に反する行為を求められるということはないというべきである。なお,音楽教師が式典において「君が代」斉唱のピアノ伴奏を求められる場合に関しても同様に考えることができる。

国旗及び国歌に関する法律の制定に関しては,国論は分かれていたが,政府の国会答弁では,国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないことが示されており,同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。しかしながら,本件通達は,校長の職務命令に従わない場合は服務上の責任を問うとして,都立高等学校の教職員に対し,式典において指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱することを求めており,その意図するところは,前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制しようとすることにあるとみることができる。本件各職務命令はこうした本件通達に基づいている。

本件各職務命令は,直接には,上告人らに対し前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を持つことを禁止したり,これに反対する思想等を持つことを強制したりするものではないので,一見明白に憲法19条に違反するとはいえない。しかしながら,上告人らの不起立不斉唱という外部的行動は上告人らの思想及び良心の核心の表出であるか,少なくともこれと密接に関連している可能性があるので,これを許容せず上告人らに起立斉唱行為を命ずる本件各職務命令は憲法審査の対象となる。そして,上告人らの行動が式典において前記歴史観等を積極的に表明する意図
を持ってなされたものでない限りは,その審査はいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的になされるべきであると思われる。本件は,原判決を破棄し差し戻すことを相当とする。

2 上告人らの主張の中心は,起立斉唱行為を強制されることは上告人らの有する歴史観ないし世界観及び教育上の信念を否定することと結び付いており,上告人らの思想及び良心を直接に侵害するものであるというにあると理解できるところ,多数意見は,式典において国旗に向かって起立し国歌を斉唱する行為は慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,その性質の点から見て,上告人らの有する歴史観ないし世界観それ自体を否定するものではないとしている。多数意見は,式典における起立斉唱行為を,一般的,客観的な視点で,いわば多数者の視点でそのようなものであると評価しているとみることができる。およそ精神的自由権に関する問題を,一般人(多数者)の視点からのみ考えることは相当でないと思われる。なお,多数意見が指摘するとおり式典において国旗の掲揚と国歌の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であるが,少数者の人権の問題であるという視点からは,そのことは本件合憲性の判断にはいささかも関係しない。

前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する者でも,その内面における深さの程度は様々であろう。割り切って起立し斉唱する者もいるであろう。面従腹背する者もいるであろう。起立はするが,声を出して斉唱しないという者もいよう(なお,本件各職務命令では起立と斉唱は一体であり,これを分けて考える意味はない。不起立行為は視覚的に明瞭であるだけに,行為者にとっては内心の動揺は大きいとみることもできる。他方,職務命令を発する側にとっても斉唱よりもむしろ起立させることが重要であると考えているように思われる。)。しかし,思想及び良心として深く根付き,人格的アイデンティティそのものとなっており,深刻に悩んだ結果として,あるいは信念として,そのように行動することを潔しとしなかった場合,そういった人達の心情や行動を一般的ではないからとして,過小評価することは相当でないと思われる。

3 本件では,上告人らが抱いている歴史観ないし世界観及び教育上の信念が真摯なものであり,思想及び良心として昇華していると評価し得るものであるかについて,また,上告人らの不起立不斉唱行為が上告人らの思想及び良心の核心と少なくとも密接に関連する真摯なものであるかについて(不利益処分を受容する覚悟での行動であることを考えるとおおむね疑問はないと思われるが),本件各職務命令によって上告人らの内面において現実に生じた矛盾,葛藤,精神的苦痛等を踏まえ,まず,審査が行われる必要がある。こうした真摯性に関する審査が肯定されれば,これを制約する本件各職務命令について,後述のとおりいわゆる厳格な基準によって本件事案の内容に即して具体的に合憲性審査を行うこととなる。

4 平成11年8月に公布,施行された国旗及び国歌に関する法律は僅か2条の定義法にすぎないが,この制定に関しては,国論は分かれた。政府の国会答弁では,繰り返し,国旗の掲揚及び国歌の斉唱に関し義務付けを行うことは考えていないこと,学校行事の式典における不起立不斉唱の自由を否定するものではないこと,国旗及び国歌の指導に係る教員の職務上の責務について変更を加えるものではないこと等が示されており,同法はそのように強制の契機を有しないものとして成立したものといえるであろう。その限りにおいて,同法は,憲法と適合する。これより先,平成11年3月告示の高等学校学習指導要領は,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。」と規定しているが,この規定を高等学校の教職員に対し起立斉唱行為を職務命令として強制することの根拠とするのは無理であろう。そもそも,学習指導要領は,教育の機会均等を確保し全国的に一定の水準を維持するという目的のための大綱的基準であり,教師による創造的かつ弾力的な教育や地方ごとの特殊性を反映した個別化の余地が十分にあるものであって(最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁参照),学習指導要領のこのような性格にも照らすと,上記根拠となるものではないことは明白であると思われる。

国旗及び国歌に関する法律施行後,東京都立高等学校において,少なからぬ学校の校長は内心の自由告知(内心の自由を保障し,起立斉唱するかしないかは各教職員の判断に委ねられる旨の告知)を行い,式典は一部の教職員に不起立不斉唱行為があったとしても支障なく進行していた。こうした事態を,本件通達は一変させた。本件通達が何を企図したものかに関しては記録中の東京都関連の各会議議事録等の証拠によれば歴然としているように思われるが,原判決はこれを認定していない。しかし,原判決認定の事実によっても,都教委は教職員に起立斉唱させるために職務命令についてその出し方を含め細かな指示をしていること,内心の自由を説明しないことを求めていること,形から入り形に心を入れればよい,形式的であっても立てば一歩前進だなどと説明していること,不起立行為を把握するための方法等について入念な指導をしていること,不起立行為等があった場合,速やかに東京都人事部に電話で連絡するとともに事故報告書を提出することを求めていること等の事実が認められるのであり,卒業式等にはそれぞれ職員を派遣し式の状況を監視していることや,その後の戒告処分の状況をみると,本件通達は,式典の円滑な進行を図るという価値中立的な意図で発せられたものではなく,前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念を有する教職員を念頭に置き,その歴史観等に対する強い否定的評価を背景に,不利益処分をもってその歴史観等に反する行為を強制することにあるとみることができると思われる。本件通達は校長に対して発せられたものではあるが,本件各職務命令は本件通達に基づいているのであり,上告人らが,本件各職務命令が上告人らの有する前記歴史観ないし世界観及び教育上の信念に対し否定的評価をしているものと受け止めるのは自然なことであると思われる。

本件各職務命令の合憲性の判断に当たっては,本件通達やこれに基づく本件各職務命令をめぐる諸事情を的確に把握することが不可欠であると考えられる。

5 本件各職務命令の合憲性の判断に関しては,いわゆる厳格な基準により,本件事案の内容に即して,具体的に,目的・手段・目的と手段との関係をそれぞれ審査することとなる。目的は真にやむを得ない利益であるか,手段は必要最小限度の制限であるか,関係は必要不可欠であるかということをみていくこととなる。結局,具体的目的である「教育上の特に重要な節目となる儀式的行事」における「生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ること」が真にやむを得ない利益といい得るか,不起立不斉唱行為がその目的
にとって実質的害悪を引き起こす蓋然性が明白で,害悪が極めて重大であるか(式典が妨害され,運営上重大な支障をもたらすか)を検討することになる。その上で,本件各職務命令がそれを避けるために必要不可欠であるか,より制限的でない他の選び得る手段が存在するか(受付を担当させる等,会場の外における役割を与え,不起立不斉唱行為を回避させることができないか)を検討することとなろう。

6 以上,原判決を破棄し,第1に前記3の真摯性,第2に前記5の本件各職務命令の憲法適合性に関し,改めて検討させるため,本件を原審に差し戻すことを相当とする。


大阪府の「君が代起立・斉唱条例は憲法違反だと考える。 [憲法問題]

(1) 6月4日、大阪府議会は、会派としては、橋下知事を代表とする、維新の会の単独議決で、「君が代起立・斉唱条例」を可決、成立させた。

(2) 直前の5月30日に、最高裁は、東京都教員の再雇用拒否処分取り消し請求事件において、卒業式の際の君が代斉唱時の起立・斉唱を命じる職務命令に従わなかったことを理由に、再雇用しなかったことが憲法違反ではない、としたことから、大阪府の「君が代起立・斉唱条例」も憲法違反ではないかの論調が多いが、当ブログは、この条例は憲法違反だと考える。 

(3) 前記最判は、以下のとおり、君が代起立・斉唱は、学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作としての国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするもので、教育上の行事にふさわしい秩序の確保と式典の円滑な進行を図るものだとして、必要性、合理性が認められる、とするものである。

本件職務命令は,公立高等学校の教諭である上告人に対して当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするものであって,高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い,かつ,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。

(4) これに対して、大阪府の君が代起立・斉唱条例は、単なる、秩序の維持や儀式の円滑な進行を図る、ということを超えて、ことさらに、君が代と日の丸についての敬意と尊敬の姿勢を教職員に示させるべく、服務規律を厳格化するものであり、前記最判の、「慣例上の儀礼的な所作」を求めることで、儀式の円滑な進行を図るものだから問題が無い、という域を超えて、教員の思想、良心の自由についての間接的な制約をはかろうとするものであって、憲法違反であると考える。

 今後の大阪府の君が代起立・斉唱条例の憲法判断に際しては、国旗・国歌法の制定にあたっては、決して強制になってはいけない旨が確認されていること、また、今回の条例制定が、他の会派の反対を押し切って、事前に公約にも全く示されていなかったこの条例案が、会派としては維新の会の単独の賛成により議決された、ということ、つまり、府民による広い議論も経ることなく、少数会派の反対も押し切って、一方的に議決された、ということも重要な意味を持つものと考えるものである。

(5) 平成23年5月30日最判の、結論部分を以下に記載する。

(1)上告人は,卒業式における国歌斉唱の際の起立斉唱行為を拒否する理由について,日本の侵略戦争の歴史を学ぶ在日朝鮮人,在日中国人の生徒に対し,「日の丸」や「君が代」を卒業式に組み入れて強制することは,教師としての良心が許さないという考えを有している旨主張する。このような考えは,「日の丸」や
「君が代」が戦前の軍国主義等との関係で一定の役割を果たしたとする上告人自身の歴史観ないし世界観から生ずる社会生活上ないし教育上の信念等ということができる。

しかしながら,本件職務命令当時,公立高等学校における卒業式等の式典において,国旗としての「日の丸」の掲揚及び国歌としての「君が代」の斉唱が広く行われていたことは周知の事実であって,学校の儀式的行事である卒業式等の式典における国歌斉唱の際の起立斉唱行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものであり,かつ,そのような所作として外部からも認識されるものというべきである。したがって,上記の起立斉唱行為は,その性質の点から見て,上告人の有する歴史観ないし世界観を否定するこ
とと不可分に結び付くものとはいえず,上告人に対して上記の起立斉唱行為を求める本件職務命令は,上記の歴史観ないし世界観それ自体を否定するものということはできない。また,上記の起立斉唱行為は,その外部からの認識という点から見ても,特定の思想又はこれに反する思想の表明として外部から認識されるものと評価することは困難であり,職務上の命令に従ってこのような行為が行われる場合には,上記のように評価することは一層困難であるといえるのであって,本件職務命令は,特定の思想を持つことを強制したり,これに反する思想を持つことを禁止し
たりするものではなく,特定の思想の有無について告白することを強要するものということもできない。そうすると,本件職務命令は,これらの観点において,個人の思想及び良心の自由を直ちに制約するものと認めることはできないというべきである。

(2) もっとも,上記の起立斉唱行為は,教員が日常担当する教科等や日常従事する事務の内容それ自体には含まれないものであって,一般的,客観的に見ても,国旗及び国歌に対する敬意の表明の要素を含む行為であるということができる。そうすると,自らの歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となる「日の丸」や「君が代」に対して敬意を表明することには応じ難いと考える者が,これらに対する敬意の表明の要素を含む行為を求められることは,その行為が個人の歴史観ないし世界観に反する特定の思想の表明に係る行為そのものではないとはいえ,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為(敬意の表明の要素を含む行為)を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があることは否定し難い。

なお,上告人は,個人の歴史観ないし世界観との関係に加えて,学校の卒業式のような式典において一律の行動を強制されるべきではないという信条それ自体との関係でも個人の思想及び良心の自由が侵される旨主張するが,そのような信条との関係における制約の有無が問題となり得るとしても,それは,上記のような外部的行為が求められる場面においては,個人の歴史観ないし世界観との関係における間接的な制約の有無に包摂される事柄というべきであって,これとは別途の検討を要するものとは解されない。

そこで,このような間接的な制約について検討するに,個人の歴史観ないし世界観には多種多様なものがあり得るのであり,それが内心にとどまらず,それに由来する行動の実行又は拒否という外部的行動として現れ,当該外部的行動が社会一般の規範等と抵触する場面において制限を受けることがあるところ,その制限が必要かつ合理的なものである場合には,その制限を介して生ずる上記の間接的な制約も許容され得るものというべきである。そして,職務命令においてある行為を求められることが,個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求め
られることとなり,その限りにおいて,当該職務命令が個人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があると判断される場合にも,職務命令の目的及び内容には種々のものが想定され,また,上記の制限を介して生ずる制約の態様等も,職務命令の対象となる行為の内容及び性質並びにこれが個人の内心に及ぼす影響その他の諸事情に応じて様々であるといえる。したがって,このような間接的な制約が許容されるか否かは,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量して,当該職務命令に上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるか否かという観点から判断するのが相当である。

(3) これを本件についてみるに,本件職務命令に係る起立斉唱行為は,前記のとおり,上告人の歴史観ないし世界観との関係で否定的な評価の対象となるものに対する敬意の表明の要素を含むものであることから,そのような敬意の表明には応じ難いと考える上告人にとって,その歴史観ないし世界観に由来する行動(敬意の表明の拒否)と異なる外部的行為となるものである。この点に照らすと,本件職務命令は,一般的,客観的な見地からは式典における慣例上の儀礼的な所作とされる行為を求めるものであり,それが結果として上記の要素との関係においてその歴史
観ないし世界観に由来する行動との相違を生じさせることとなるという点で,その限りで上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があるものということができる。
他方,学校の卒業式や入学式等という教育上の特に重要な節目となる儀式的行事においては,生徒等への配慮を含め,教育上の行事にふさわしい秩序を確保して式典の円滑な進行を図ることが必要であるといえる。法令等においても,学校教育法は,高等学校教育の目標として国家の現状と伝統についての正しい理解と国際協調の精神の涵養を掲げ(同法42条1号,36条1号,18条2号),同法43条及び学校教育法施行規則57条の2の規定に基づき高等学校教育の内容及び方法に関する全国的な大綱的基準として定められた高等学校学習指導要領も,学校の儀式的
行事の意義を踏まえて国旗国歌条項を定めているところであり,また,国旗及び国歌に関する法律は,従来の慣習を法文化して,国旗は日章旗(「日の丸」)とし,国歌は「君が代」とする旨を定めている。そして,住民全体の奉仕者として法令等及び上司の職務上の命令に従って職務を遂行すべきこととされる地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性(憲法15条2項,地方公務員法30条,32条)に鑑み,公立高等学校の教諭である上告人は,法令等及び職務上の命令に従わなければならない立場にあるところ,地方公務員法に基づき,高等学校学習指導要領に沿った式典の実施の指針を示した本件通達を踏まえて,その勤務する当該学校の校長から学校行事である卒業式に関して本件職務命令を受けたものである。これらの点に照らすと,本件職務命令は,公立高等学校の教諭である上告人に対して当該学校の卒業式という式典における慣例上の儀礼的な所作として国歌斉唱の際の起立斉唱行為を求めることを内容とするものであって,高等学校教育の目標や卒業式等の儀式的行事の意義,在り方等を定めた関係法令等の諸規定の趣旨に沿い,かつ,地方公務員の地位の性質及びその職務の公共性を踏まえた上で,生徒等への配慮を含
め,教育上の行事にふさわしい秩序の確保とともに当該式典の円滑な進行を図るものであるということができる。

以上の諸事情を踏まえると,本件職務命令については,前記のように外部的行動の制限を介して上告人の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びに上記の制限を介して生ずる制約の態様等を総合的に較量すれば,上記の制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるものというべきである。

(4) 以上の諸点に鑑みると,本件職務命令は,上告人の思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当である。

以上は,当裁判所大法廷判決(最高裁昭和28年(オ)第1241号同31年7月4日大法廷判決・民集10巻7号785頁,最高裁昭和44年(あ)第1501号同49年11月6日大法廷判決・刑集28巻9号393頁,最高裁昭和43年(あ)第1614号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号615頁,最高裁昭和44年(あ)第1275号同51年5月21日大法廷判決・刑集30巻5号1178頁)の趣旨に徴して明らかというべきである。所論の点に関する原審の判断は,以上の趣旨をいうものとして,是認することができる。論旨は採用することができない。


外国人への地方参政権付与、傍論といえども最高裁の見解を尊重すべき、との枝野大臣発言を支持する。 [憲法問題]

(1) 枝野行政刷新大臣が、3月5日、外国人参政権をめぐって、憲法上禁止されてないことは、傍論といえども最高裁が認めていることだ、と国会で答弁したが、当然のことである。

(2) 外国人に法律で地方参政権を認めることは、憲法上、特に問題の無いことで、速やかに認めるべきことは、すでに当ブログでも指摘しているところである。http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2010-01-12-1

(3) なお、判決の傍論というのは、結論を導くために必要はないが、念のために最高裁として見解を明らかにしておくものであって、少数意見や補足意見とは全く異なる、判決における意見そのものである。

(4) 以下に、判決全文を貼り付けておく。

上告代理人相馬達雄、同平木純二郎、同能瀬敏文の上告理由について


 憲法第三章の諸規定による基本的人権の保障は、権利の性質上日本国民のみをその対象としていると解されるものを除き、我が国に在留する外国人に対しても等しく及ぶものである。そこで、憲法一五条一項にいう公務員を選定罷免する権利の保障が我が国に在留する外国人に対しても及ぶものと解すべきか否かについて考えると、憲法の右規定は、国民主権の原理に基づき、公務員の終局的任免権が国民に存することを表明したものにほかならないところ、主権が「日本国民」に存するものとする憲法前文及び一条の規定に照らせば、憲法の国民主権の原理における国民とは、日本国民すなわち我が国の国籍を有する者を意味することは明らかである。そうとすれば、公務員を選定罷免する権利を保障した憲法一五条一項の規定は、権利の性質上日本国民のみをその対象とし、右規定による権利の保障は、我が国に在留する外国人には及ばないものと解するのが相当である。そして、地方自治について定める憲法第八章は、九三条二項において、地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が直接これを選挙するものと規定しているのであるが、前記の国民主権の原理及びこれに基づく憲法一五条一項の規定の趣旨に鑑み、地方公共団体が我が国の統治機構の不可欠の要素を成すものであることをも併せ考えると、憲法九三条二項にいう「住民」とは、地方公共団体の区域内に住所を有する日本国民を意味するものと解するのが相当であり、右規定は、我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない。以上のように解すべきことは、当裁判所大法廷判決の趣旨に徴して明らかである。


 このように、憲法九三条二項は、我が国に在留する外国人に対して地方公共団体における選挙の権利を保障したものとはいえないが、憲法第八章の地方自治に関する規定は、民主主義社会における地方自治の重要性に鑑み、住民の日常生活に密接な関連を有する公共的事務は、その地方の住民の意思に基づきその区域の地方公共団体が処理するという政治形態を憲法上の制度として保障しようとする趣旨に出たものと解されるから、我が国に在留する外国人のうちでも永住者等であってその居住する区域の地方公共団体と特段に緊密な関係を持つに至ったと認められるものについて、その意思を日常生活に密接な関連を有する地方公共団体の公共的事務の処理に反映させるべく、法律をもって、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講ずることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生ずるものではない。以上のように解すべきことは,当裁判所大法廷判決の趣旨に徴して明らかである。


 以上検討したところによれば、地方公共団体の長及びその議会の議員の選挙の権利を日本国民たる住民に限るものとした地方自治法一一条、一八条、公職選挙法九条二項の各規定が憲法一五条一項、九三条二項に違反するものということはできず、その他本件各決定を維持すべきものとした原審の判断に憲法の右各規定の解釈の誤りがあるということもできない。所論は、地方自治法一一条、一八条、公職選挙法九条二項の各規定に憲法一四条違反があり、そうでないとしても本件各決定を維持すべきものとした原審の判断に憲法一四条及び右各法令の解釈の誤りがある旨の主張をもしているところ、右主張は、いずれも実質において憲法一五条一項、九三条二項の解釈の誤りをいうに帰するものであって、右主張に理由がないことは既に述べたとおりである。 


 以上によれば、所論の点に関する原審の判断は、正当として是認することができる。論旨は採用することができない。
 よって、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 可部恒雄 裁判官 園部逸夫 裁判官 大野正男 裁判官 千種秀夫 裁判官 尾崎行信)


中国副主席会見問題「天皇の政治利用」との批判は不当である。 [憲法問題]

(1) 中国の習近平・副主席の来日に際し、「天皇の会見」の宮内庁への要請が、本来、1ヶ月以上前になされるべきところ、そのルールが守られなかったとして、政府の「天皇の政治利用」であるとの批判がなされているが、一連の政府の行為に何の問題も無いと考える。

(2) 本来、会見に応じてはいけない人の会見に応じた、というならともかく、中国副主席の来日に際して、陛下と会見して悪いはずがない。「1ヶ月ルール」を守る国益と、「1ヶ月ルール」に反してでも中国要人を接受することで得られる国益の方が大きいことは明らかである。

(3) 政府は、国益のために必要だと考えたから、「1ヶ月ルール」に反してでも、陛下の会見を行うことを決めたのである。次期中国国家主席と目される習近平氏と、特別に陛下との会見を設定するか、「1ヶ月ルール」を理由にこれを拒否するか、どちらが国益にかなうかは自明である。

 これは、党利党略でも何でもない、国益を考えた正当な外交行為である。

(4) 「天皇の政治利用」と批判されるが、政治、外交的に大きな効果を持つ天皇の外交的国事行為につき、政府の判断で、時期や対象、内容を判断するのは当然である。

 中国に媚びを売るな、という産経新聞の批判なら意味は分かるが、「天皇の政治利用」だから不当だとの朝日新聞の批判は理解できない。 

(5) 「1ヶ月ルール」は、何も政治的必要性、天皇会見の政治的中立性の観点から決められているのではなく、もっぱら陛下の健康問題をおもんばかってのものである。この会見を設定することで天皇の健康を害する、などという主張でもない限り、政府の判断に何の問題も無いというべきである。

(6) 天皇の政治利用とは、たとえば、各種天皇の催しに、与党の支持する知事は呼ぶが反対する知事は呼ばない、などというものであろう。

 政府の判断で、形式的規定は柔軟に運用し、適切な外交接受を天皇に求める今回の措置に、何も問題もないと考える。


解散権は総理の大権ではない [憲法問題]

 「解散権は総理の大権」などと言って、基本的に首相が自由に衆議院解散の時期を選べるかの説明が、一部の政治記者、政治学者などからなされている。白鴎大学の福岡教授に至っては、与野党で解散時期を合意することは、首相の解散権を縛る、憲法違反行為などと主張している。
 しかし、憲法上、衆議院が、より民意を正確に反映させられるよう、解散という制度が置かれているもので、民意と衆議院の議席状況が違っている、ないしは、国民の直近の意見を聞くべきだ、との世論に基づいて解散はなされるべきものであって、首相が解散時期を自由に選べるかの指摘が、間違っていることは明らかである。
 解散権は、こと、自民党においては、総裁たる首相に委ねる、との慣習があるというだけのもので、それ自体は特に非難されるべきことではないが、対野党、対国民との関係で、世論がどうあれ、解散は首相が自由に決める、などということがあってはならないものである。
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