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中田宏議員の、衆院でのNHK「低俗番組」批判は間違っている。 [報道・言論]

(1)維新の会の中田宏議員が、NHKの予算案審議が始まった3月25日の衆院総務委員会で、同局が製作する一部バラエティー番組の内容に対し、「NHKがわざわざ放送する意味があるのか」と、批判した。中田議員は、「NHKの番組が、ひとことで言うと低俗になっていないか。何だこりゃという娯楽番組が、いくつも並んでいる」と指摘した上で、「ケータイ大喜利」「コントの劇場」「七人のコント侍」の3番組をやり玉に挙げ、「何人かに聞いても、『NHKがやる番組じゃない』という答えをもらった。」などとして、国会でこんな意見が出た、ということも参考に今後の番組作りを考えてほしい、などとNHKの籾井会長を追及し、会長は「大変参考にさせていただき、今後のNHKの娯楽番組のあり方を、いろいろ研究させていただきたい」と応じたが、中田氏も籾井会長も不当である。

(2) 中田氏自身も認めるように一議員が「低俗」などと決められるものでは決してない。あるいは、それらの番組は、ニュースでも教養番組でもないから、それらに比べて「低俗」であることは明らかであるが、それがNHKの番組として好ましいか好ましくないか、ということを一国会議員の意見を参考にするものでは決してない。

 一議員でも大臣でも首相でも、ひとりの感性で、ひとつの放送局の番組編成に影響を与えようということ自体が間違っている。放送局がそんなものに影響を受けてはいけない。

(3) 議員とすれば、たとえば視聴者からの苦情が殺到した、PTA連合から批判を受けたとか、番組のせいで犯罪が起こった、いじめの原因になった、などという客観的事実を元に主張すべきものである。あるいは、番組中の暴力の表現が不当だ、などという当、不当の指摘であれば議論の対象となるが、NHKとしてふさわしくない低俗さかどうか、などというのはもっぱら感性の問題であって、一人の感性で論じるべき問題でないことは明らかである。

(4) NHKの娯楽番組の内容は、いわば国民の文化である。政治家が自らの感性で国民の文化に影響を与えようなどということ自体が間違っている。またNHKの会長も、決して政府の意向の伝達者となるのではなく、報道も文化も、政治その他の圧力からNHK内部を守る防波堤となるべき立場であることを認識すべきである。


小松法制局長官が、「安倍政権の番犬」と言われて激怒したが、本当のことを言われるから怒るのだ。 [新安倍政権]

(1) 小松一郎法制局長官が3月4日、共産党の小池晃副委員長から国会で、「あなたは安倍政権の番犬みたい」と言われたことに激怒し、翌日の社民党首の質問の際に、聞かれてもいないのに「国家公務員にも、プライバシーや名誉に関わるものを含め、憲法上、基本的人権が保障されている」などと言って反論したとのことである。

(2) しかし、正しいと信じる行動を、我が身を犠牲にしてまで行うと、番犬のような態度になるだろう。裁判官は法の番犬、警察官は正義の番犬と言われて、名誉でこそあれ、侮辱とはなり得ないはずである。

(3) 要は、法制局長官たる者、内閣における法の番人であるべきところ、内閣の番犬となって法に吠えつけるようでことでは長官、失格である。小松長官とすれば、「安倍政権の番犬」のような仕事はしていない、と堂々と反論し、態度でもってそのことを示せばよいだけのことで、自らの名誉や基本的人権の話として怒るような指摘では全くない。法制局長官が、その憲法知識や識見を、立憲民主主義下での国家統治の問題ではなく、自らの公務員としての名誉についていくら力説しても滑稽でしかない。

(4) 要するに、小松長官は、図星を突かれたから怒ったのだろう。良心や信念に反する行動を取っているから、忸怩たるものがあり、反論できないから、辱められたと思うのだ。

 内閣が法を遵守する姿勢を無くしたのでは法治国家とは言えない。立憲政治とも言えない。小松長官の前記の態度は、安倍政権の遵法姿勢のなさが、極めてゆゆしき事態に立ち至っていることの象徴であると考える。


集団的自衛権を認めると、日本が、同盟国の侵略戦争に加担する国になる。 [新安倍政権]

(1) 安倍政権下で、現平和憲法の下でも、集団的自衛権が行使できるように、憲法解釈を変える閣議決定をしたい旨、安倍首相が言明しているが、不当である。そのような解釈は現平和憲法のもと、絶対に許されないというべきである。

(2) もともと政府の見解は、憲法9条は戦争放棄をうたっているけれども、他国から侵略を受けた場合に、国を守る自衛権は、自然権の最たるもの、生存権に基づくものであり、そのような、正当防衛的な権利まで放棄したとは考えられないから、そのために必要最小限の軍備を保持することは憲法に違反しない、というものである。

 これはあくまで、日本としては今後、絶対に戦争はしないが、万が一、日本が侵略されたような場合に、それに反撃するのは別問題である、ということである。日本は、今後、一切、戦争はしないのである。それが、戦争の放棄、憲法9条である。

(3) このことについては、平成13年12月から、小泉内閣のもとで始まった、「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」での議論が参考になる。つまり、同懇談会の中で、いかなる者を追悼の対象にするかについて、

追悼の対象は、国のために戦死した将兵に限られない。空襲はもちろん、戦争に起因する様々な困難によって沢山の民間人が命を失った。これらの中には既存の慰霊施設による慰霊の対象になっていない人も数多い。さらに、戦争の惨禍に思いを致すという点では、理由のいかんを問わず過去に日本の起こした戦争のために命を失った外国の将兵や民間人も、日本人と区別するいわれはない。

としつつ、 

戦後について言えば、日本は日本国憲法により不戦の誓いを行っており、日本が戦争することは理論的にはあり得ないから、このような戦後の日本にとって、日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をした者の中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない。

としているのである(平成14年12月13日の議論)。

 過去はともかく、日本は、絶対に戦争をしない国なのだから、日本の平和を害する行為をした者は必ず「悪」であり、同施設での追悼などに値しないことは明らかだ、としているのである。

(4) しかし、集団的自衛権を行使する場合はそうはいかない。たとえば、アメリカがイラクに戦争をしかけ、イラクがこれに抵抗して戦争状態になり、日本近海にいるアメリカ艦船にイラクの爆撃機から攻撃が加えられたような場合、日本は集団的自衛権に基づいてイラクの爆撃機を攻撃し、兵員を殺傷することも十分考えられる。

 アメリカには平和憲法はないから、アメリカは必要だと考えれば戦争を遂行する。その過程で現象的には他国がアメリカ軍を攻撃している場合、それがその国からすれば侵略に対する防衛行為の性格を帯びているとしても、日本は集団的自衛権に基づき、その国を攻撃することになる。しかしそれは、日本が侵略戦争に加担する、ということである。

(5) 日本は絶対に戦争はしない国なのである。自衛戦争はともかく、少なくとも侵略戦争は絶対にしない国なのである。それが日本が平和憲法を持っているということである。

 しかし、集団的自衛権を認めたとたんに、同盟国による侵略戦争に加担してしまう。罪のない、侵略を受けた他国を日本が攻撃し、その国民を殺戮することになってしまうのである。

 そんなことが許されてよいはずがない。少なくとも、現平和憲法下で認められないことは明らかである。集団的自衛権を認めると、日本が、普通に戦争ができる国になるというだけでなく、同盟国の侵略戦争に加担する国になってしまうのである。

 そんなことは決して許されないとともに、そんな大事なことが十数人の閣僚による閣議決定で決められてしまう、などということがあってはならないことは、余りにも明らかである。