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スクールロイヤーの制度導入に反対である。 [法律]

(1) 現在、スクールロイヤーという制度の導入が検討されている。スクールロイヤーとは、学校に常駐し、ないしは、日常的に教師や生徒や保護者が気軽に相談できる弁護士を契約しておく、というものであるが、その導入には反対である。


(2) スクールロイヤーとは、いろんなパターンが考えられるが、たとえば、市教委が各学校ごとに弁護士ないし弁護士事務所と顧問契約をして料金を支払い、校長や教員、生徒の保護者や生徒が、その学校に関する法律的な問題を、無償で弁護士に相談できる、というものである。いじめやいじめによる自殺などの事件が発生した場合、少なくとも当面の調査なども担当するようである。


(3) しかし、スクールロイヤーたる弁護士は、法的紛争が起こった際、いったい、誰のための弁護をするのか、少なくとも始めのうちは判らない。たとえば、いじめ自殺が起こった場合、被害者の生徒、加害者の生徒、また、教員、また校長や学校側、この4者は、たとえば将来、裁判になった場合、原告となったり被告となったり、また重要証人となる可能性のある立場となる。あるいは、校長や担当教員の業務査定に重要な影響を与える材料をスクールロイヤーは収集することになる。


 その際に、日頃から何かと法的相談に乗ってもらっている弁護士さんだからと気を許して、何でも話したところ、後日、裁判等で、その内容が相手方側、被告側に有利な材料として使われない保証はない。


(4) それは弁護士としても絶対に避けなければいけない事態、「利害相反事態」や「相手方の相談を受けた事件の受任」である。


 そうすると結局、学校内で法的紛争が起こった場合、それまで学校や教員、生徒や保護者全体のための法的アドバイザーとして活動してきたスクールロイヤーたる者が、今後は、誰かが誰かを訴える、誰かが誰かの責任を徹底的に追及することがあるかもれいないのだから、特定の誰かだけのためになる行動、特定の誰かの責任を追及する行動、それらの活動ができないことから、一切の活動を差し控える、ということでなければいけない筈である。


(5) しかし、それでは日頃からスクールロイヤーとして活動していることの意味が無くなる。あるいは、いじめ自殺のような事件が起こったときも頼りにできる存在だと期待していたところ、そのような場合は役に立たないということなら、その旨を徹底しておかないと、却って有害である。


 結局、各事件ごとに、「このいじめ自殺事件の事実調査のために依頼を受けた弁護士」という立場で事件の調査等にあたるべきもので、日頃から学校で、教員や生徒とつながりのある者が、それにあたるということ自体、不適切なのである。


 これは、家族の顧問弁護士として活動してきた弁護士が、その家族の相続、遺産分割問題の相談に乗ると、今後、長男が次男を訴える、などということが考えられることから、相続に関する一切の相談受任は回避すべきだ、ということと共通する問題である。


(6) あるいは、スクールロイヤーは常に中立的に活動する、ということで前記の問題点が除去できる、という考えもあろうが、それも空論である。


 これは、財務省の幹部が記者らに対するセクハラを行ったという疑惑の調査の際に、財務省の顧問弁護士が、中立的立場でセクハラの申告を受け付けると発表して批判を浴びたように、いくら中立を標榜しても、真に中立的立場は取りえないと考えられることから、「中立宣言」自体、不適切である。あるいは、依頼者たる財務省に決定的に不利になるような事態は避けるに違いないという印象を与えることから、「中立宣言」をしてそれによって広く有効に情報収集、事実調査ができる、というものでもない。


(7) 以上のとおり、学校という、そこで法的トラブルが起きれば複雑な権利、義務関係が錯綜する場面において、学校側、市教委側だけではなく、教員や生徒や保護者の法的権利の擁護のためにも活動することを標榜してスクールロイヤーという立場で弁護士が活動することは、それを信頼して相談していた関係者等に対して予期せぬ被害、ダメージ等を与え、あるいは、少なくとも法的サポートが受けられるとの幻想を与えることになるから、弁護士が、そのような誤解を与えることで、関係者の将来の法的立場に悪影響を与えることになることを避けるため、スクールロイヤーの制度は、導入してはならないものと考える。

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小学生が校庭で蹴ったボールが道に出て、バイクが転んで怪我した事件で、小学生の親に賠償義務を認めた判決には納得できない。 [法律]

(1) 6月7日、大阪高裁が、小学5年生の児童が校庭で蹴ったサッカーボールが門扉を越えて道路に飛び出し、これを避けようとして男性がバイクで転んだ事件について、小学生の親に、男性に対して1100万円の賠償請命じる判決を下したが納得できない。

 これは、平成23年6月27日に大阪地裁が同様の判決を下していたところ、大阪高裁がこれを是認したものである。

(2) ゴールはもともと、校庭の門扉近くに学校が置いていたもので、そこで子どもがシュート練習をするのはごく普通の行為であり、たまに、高いボールを蹴ってボールが遠くへ飛んでいくことも普通にあることであろう。そして、ゴールの場所が門扉のそばなのだから、門扉を越えてボールが道に飛び出ることも普通にあると思われる。

(3) 本件の小学生は、「このゴールでシュート練習をしてはいけない」という注意を受けていなかったのであるから、ミスキックの責任を問うのはおかしい。

 むしろ、(2)のような事態は簡単に予想できたのであるから、学校の方は、ゴールをそこに置くなら門扉の上にネットを張るべきだし、ネットを張れないなら、そんなところにゴールを置いてはいけない。

(4) また、読売新聞によると、この高裁判決では、岩田裁判長は「校庭からボールが飛び出すのは珍しくなく、注意しながら走行すべきだった」と男性の過失を新たに認定し、賠償額を約320万円減額したとのことであるが、これもおかしい。

 校庭のそばは、いつボールが飛んでくるかもしれないから減速せよ、などと、自動車学校でも警察でも、運転者は、誰からも注意を受けることなどない。そんな「危険設備」なら、学校のそばに「学校有り・減速すべし」との危険表示を行うべきであるが、この判決を受けて、運転者は、事前に学校の位置を調べてから道路を走行し、学校周辺では減速すべきだ、とでもいうのだろうか。

 あるいは、本件の小学生は、とんでもないことをしでかしたから、その親に責任がある、という理論構成のはずである。よくあることなら、個人の責任ではない。

(5) この事件は、簡単にボールが飛び出るような状態でネットを張っていなかった学校の責任、あるいは、ネットもないのだから、そんなところにゴールを置かず、また、そこでのボール蹴りを禁止しなかった学校の責任であり、小学生に結果発生についての落ち度はなく、よってその親の監督責任もないと考える。この判決は不当である。


不同意堕胎罪の法定刑「7年以下の懲役」は軽過ぎる。 [法律]

(1) 医師が、妊娠した交際相手の看護師に無断で子宮収縮剤などを投与し流産させたとして、不同意堕胎罪に問われた事件の東京地裁の公判で、8月5日、検察側は「命を守るべき医師が、自己保身のみのために立場を悪用した卑劣な犯行だ」と述べ、懲役5年を求刑した。

(2) しかし、これは軽すぎるのではないだろうか。そもそも不同意堕胎罪の法定刑は7年以下の懲役である。これに対して殺人罪は、死刑または無期もしくは5年以上の懲役である。

(3) 不同意堕胎は胎児に対する殺人である。この事件の「被害者の胎児の母(と敢えて言おう)」はこの子を産むつもりだった。その子の父親である被告人が、その子が邪魔になって殺したのである。それはともかく、もうすぐ確実に産まれてくる胎児を、この世から抹消したのだから「殺人」そのものであろう。

(4) 母親が、自分の意思で胎児をおろす堕胎罪との関係で、不同意堕胎罪もどうしても軽く評価されがちであるが、産むつもりの胎児、産まれてくるはずの胎児を抹殺するのはほぼ、殺人と同じ法益侵害があるというべきである。

 不同意堕胎罪は死刑を含む重罰で処すべきであると考える。


除斥期間経過後の賠償を認めた最高裁判決は不当である。除斥期間を延長する法改正をすべきである。 [法律]

(1) 最高裁は、4月28日、26年前の殺人事件について、除斥期間を適用せず、加害者の賠償責任を認める判決を下した。

 最高裁は、死亡を知り得ない状況をことさらに作り出した加害者が賠償責任を免れるのは著しく正義、公正の理念に反するとして除斥期間を適用しなかったのであるが、不当である。

(2) 殺人事件で死体を埋めるなどして20年以上発覚しなかった事件は、これまでに多数、存在したものと思われる。

 また、最高裁は、「死亡を知り得ない状況をことさらに作り出した加害者」というが、殺人後、巧妙に逃げる等で犯人が判らなかった場合でも、被害者において賠償請求等の権利行使ができないという意味においては特に違いは無いように思われる。

(3)かつて最高裁は、予防接種訴訟における国の責任を認める際に、除斥期間の適用を排除したことがある。

 しかし、これは、本来、国民の福祉を増進させ、健康被害者に対してはその原因を速やかに解明し、その後、万全の救済措置を講じる責務を有する国が、自らの不法行為について、自ら定めた20年という除斥期間という制度により、現に苦しむ被害者への賠償義務を免れるのは、著しく正義、公平の理念に反するとするもので、国民の健康被害の救済について積極的責務を有する国が、長年放置してきたことにつき、その放置期間が長ければ長いほど、より強く非難されるべきところ、20年の経過により、責任が免除されるというのは余りにも正義、公平の理念に反するとしたものである。

(4)しかし、除斥期間の趣旨は、不法行為が有ろうが無かろうが、被害者からの権利行使ができようができまいが、なにせ、 20年という時の経過により、事件そのものが風化し、証拠も散逸し、もはや不法行為による賠償手続を法的に認めることが不相当だとされるからである。

 その期間を法律で20年と定めている以上、予防接種事件における国の責任等、極めて例外的なものを除いて、除斥期間の規定は守られるべきである。

(5)一方、現代は科学の進歩により、古い事件でも科学的に完全に立証する技術も発達したし、インターネットを含む各種メディアの発達により、20年やそこらの記録は国民にとっても簡単に扱える。また節目節目でメディアが思い出させてくれるから記憶も余り薄れないし、権利意識の高まりから、時の経過が権利を消滅させるというその期間が、20年というのは短すぎるように思われる。

 また、死刑事件の公訴時効も25年に延長された今、不法行為による損害賠償請求が、何があっても20年で消滅する、というのはいくらなんでも短すぎるというべきである。

 そこで、刑罰の時効期間の長期化と同様、除斥期間についても、現在の民法724条の20年の期間を、たとえば50年等に延長する法改正をすべきであると考える。