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衛藤・首相補佐官の、「安倍靖国参拝で失望」とした米国批判応酬、靖国神社の根本理解が違うのだ。 [新安倍政権]

(1) 2月16日、衛藤・首相補佐官は、自らのホームページにユーチューブを通じて、安倍首相が平成25年12月に靖国神社に参拝したのは、「国のために亡くなった方々に国の代表として慰霊申し上げる、改めて平和を祈念する、不戦の誓いをする」そういう純粋な気持ちで行っているのであって、米国の批判は心外だし、理由がない。こちらこそ失望した。中国を利して同盟国・日本を害するものである、などと発言していたが、2月19日、菅官房長官の批判を受けて撤回した。

(2) 思うに、安倍首相や衛藤補佐官と米国とでは、靖国神社に対する根本的見方が違うことがこの、「失望」の応酬の原因であると考える。

(3) そもそも、靖国神社に参拝して、「国のために亡くなった方々に国の代表として慰霊申し上げる、改めて平和を祈念する、不戦の誓いをする」(衛藤氏のホームページからそのまま引用)、あるいは、「すべての戦争で命を落とされた人々のために手を合わせ、冥福を祈り、二度と再び戦争の惨禍で人々の苦しむことのない時代を作るとの決意を込めて、不戦の誓いをした。」(平成25年12月の安倍首相参拝時の見解表明)などと言っても米国はそうは思わない。

 靖国神社については、米国政府としても当然、よく研究し、その成り立ち、存在意義、遊就館についても中身をよく知っている。そうすれば、靖国神社が、国のために亡くなった方々を慰霊する、というのは不正確であることは米国もよく判っているはずである。国のために戦死した兵士とそれに準じる方々を称えているのが靖国神社である。また、太平洋戦争を、正しい戦争だった、としているのが靖国神社である。

 日本は間違ったことをした、戦争の犠牲で死なせて、申し訳ないことをした、と英霊に対して首相が謝っているのではなく、正しい戦争のために、よくぞ命を投げ出された、と英雄的行為を称えているのが首相の参拝なのである。また、246万柱のうち、たまたま何柱からのA級戦犯が祀られているということではなく、A級戦犯を祀るのは前記の靖国神社の性格から来る本質的帰着である。

(4) 国のために命を投げ出した英霊を後世の首相が称えるのは、あるいは、邪険にし、放置したりしないのは、そうしなければ、国のために命を投げ出す若者が出なくなるからである。

 次の戦争に備える、次の戦死者発生に備えるのが靖国神社とその首相参拝であるから、安倍首相の行為が、平和の祈念、不戦の誓い、などということでは絶対にあり得ない。それは靖国神社の存在と矛盾することになる。

(5) 靖国神社では、太平洋戦争は間違っていなかった、と評価しているのだから、靖国神社で英霊に祈るのは、いざとなったら、今度こそ米英にも勝つために後に続くことを約束する、という意味も込められていることになるではないか。

 首相が靖国神社に参拝するということは、太平洋戦争における日本軍の行為を正当化し、国家として次の戦争に備えるということである。

(6) 安倍首相の、「すべての戦争で命を落とされた人々のために手を合わせ、冥福を祈り、二度と再び戦争の惨禍で人々の苦しむことのない時代を作るとの決意を込めて、不戦の誓いをした。」というなら、靖国神社ではなく、千鳥ヶ淵で祈るはずだろう、米国がそう言いたいのは、ケリー国務長官、ヘーゲル国防長官が、平成25年10月3日に、靖国神社ではなく、わざわざ千鳥ヶ淵戦没者墓園に参ったことから明らかだろう。

 日本の政治家は、少なくとも、米国の、靖国神社に対するそのような考え方を十分に理解した上で、靖国神社や、日米関係について論じるべきだと考える。