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憲法解釈の変更により、集団的自衛権を認めるなど、言語道断である。 [憲法問題]

(1) 現在、安倍内閣は、閣議決定により憲法解釈を変更し、現憲法下で集団的自衛権を認めようとしているが、言語道断であり、決して許されないものである。

(2) まず、戦争放棄、戦力の不保持を定めた憲法9条のもと、自衛隊が意見であるかどうかについては、最高裁判所は、「自国の平和と安全とを維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置を執り得ることは、国家固有の権能の行使であつて、憲法は何らこれを禁止するものではない。」として、自国防衛のための最小限の実力を保持するのは、国家固有の権能であって、憲法といえどもそこまで禁止する趣旨ではないとしているものである。

(3) しかし、それは、自国の存立を全うする、ということであり、他国の安全にもかかわる集団的自衛権ということになると、話は全く違ってくるのは明らかである。

 そもそも他国となると、正義のための戦争かどうか、ということ自体、定かで無い場合も出てくるもので、日本が侵略された場合、侵略国に対する被害国の防衛行為という、本来的自衛権の行使という構図が描けないものである。

(4) たとえば、正義の名のもとに米軍がイラクに侵攻し、イラクが米軍に反撃したようなとき、日本が集団的自衛権行使の名のもとにイラクを攻撃するようなことも生じてくる。米軍は、世界中で戦闘行為を行う可能性のある軍隊であるから、そこと集団的自衛権を行使しあう、ということになれば、日本も、世界中で戦争を行う国になってしまうということである。

 米軍のイラク侵攻に自衛隊が関与する可能性、機会ならば、それは小さかったかもしれないが、舞台を北朝鮮に変えた場合、自衛隊が米国の起こした戦争に巻き込まれる危険性は極めて現実的なものとなってくるものである。

(5) 安倍内閣は、そこまでのことはできないように法律で定めると反論しているが、反論になっていないことは明らかである。

 なぜならば、まさに今回、憲法解釈が変わり、前記の各行為が、憲法上許されることになり、たまたま今回は、法律でこれを禁じるというだけだからである。次の内閣が法律を改正することによりこれらのことが、「必要最小限」という、「自国防衛のための」という、絶対的縛りのない中でほとんど意味のない制限がついているだけで、本格的な武力行使が、憲法上、容認されたものとして、世界中でできるようになるのである。

(6) また、共同作業中の米軍への攻撃に対して、防衛行為として、他国のミサイル基地への自衛隊による反撃が許されるのであるから、その後、奥地への侵攻が許されないとしても、軍事行動、爆撃等として、十分、戦争行為として認められる行為ができるものであり、それ自体で極めて重大なことである。

 また、その第三国が日本に対して反撃を加えることも十分に考えられ、日本として、米国が起こした戦争に正面から巻き込まれる危険性のあるという点、また、米国が始めた侵略戦争についても、日本が米軍を守るために被侵略国を攻撃することになる点においても、平和主義国家であるとの看板を完全に下ろすことになるというべきである。

(7) これらの議論の際に、砂川事件の最高裁判決(昭和34年12月16日)が引用されているので、以下に掲げておく。

 一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。


 そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

二、次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。
 しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和二七年四月二八日条約五号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。

 ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

三、よつて、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあたかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起こされたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。

 果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。そしてこのことは、憲法九条二項が、自衛のための戦力の保持をも許さない趣旨のものであると否とにかかわらないのである。(なお、行政協定は特に国会の承認を経ていないが、政府は昭和二七年二月二八日その調印を了し、同年三月上旬頃衆議院外務委員会に行政協定およびその締結の際の議事録を提出し、その後、同委員会および衆議院法務委員会等において、種々質疑応答がなされている。そして行政協定自体につき国会の承認を経べきものであるとの議論もあつたが、政府は、行政協定の根拠規定を含む安全保障条約が国会の承認を経ている以上、これと別に特に行政協定につき国会の承認を経る必要はないといい、国会においては、参議院本会議において、昭和二七年三月二五日に行政協定が憲法七三条による条約であるから、同条の規定によつて国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決され、また、衆議院本会議において、同年同月二六日に行政協定は安全保障条約三条により政府に委任された米軍の配備規律の範囲を越え、その内容は憲法七三条による国会の承認を経べきものである旨の決議案が否決されたのである。しからば、以上の事実に徴し、米軍の配備を規律する条件を規定した行政協定は、既に国会の承認を経た安全保障条約三条の委任の範囲内のものであると認められ、これにつき特に国会の承認を経なかつたからといつて、違憲無効であるとは認められない。)

 しからば、原判決が、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条二項前段に違反し許すべからざるものと判断したのは、裁判所の司法審査権の範囲を逸脱し同条項および憲法前文の解釈を誤つたものであり、従つて、これを前提として本件刑事特別法二条を違憲無効としたことも失当であつて、この点に関する論旨は結局理由あるに帰し、原判決はその他の論旨につき判断するまでもなく、破棄を免かれない。
 よつて刑訴四一〇条一項本文、四〇五条一号、四一三条本文に従い、主文のとおり判決する。


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