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安倍首相は一刻も早く自らの病状を発表し、辞任するなり、代役を立てて休むなどして、コロナ対策に万全を期すべきで、国民に知らしめない態度は、言語道断である。 [新安倍政権]

(1)8月17日、安倍首相が慶應病院に検査入院したことで、具体的な病状は公表されることなく、18日に休むだけで、このまま首相が執務を続ける旨を発表しているが、不正極まりない。


(2)民主主義は、国民が情報を知った上で、国民自らが判断するものである。

 政府は一刻も早く安倍首相の病状を公表し、その上で、それでも安倍氏は余人をもって代え難いから、首相はしばらく休養する、代わりは麻生副総理がコロナ対策の最高責任者として対応する、などと発表して、その後の政治を行うべきである。それならば、それは民主主義下の政治である。そのことが正しかったか、次の選挙で国民が判断すればよい。


(3)しかし、まさに安倍氏の前回の退陣の際、安倍氏は、体調が悪い様子のまま執務をしばらく続けた後、突然、退陣し、「国民には政治家の病状は知らしめるべきではない」、として、自らの病状を全く発表しなかったことを正当化した。


(4)しかし、「国民には政治家の病状は知らしめるべきではない」、などというのは、すべての状況を国民が知り、国民の判断と監視のもとで、国民の意思を尊重して政治が行われるべきという、民主政治の根本に反するものである。

 安倍氏は、「国民には政治家の病状を知らしめるべきではない」、などという「安倍家の家訓」かもしれないが、明らかに間違った理由で自らの病状を隠し続けて、国民をだまし続けて政治を行ったもので、それ自体、民主主義の原則に反する、許されない暴挙であるとともに、現在の、コロナ渦の状況においては、国民に取り返しのつかない害悪をもたらすものである。


(5)当ブログでも書いたが、安倍政権では、甘利経済再生担当相が2013年12月2日、舌がんの手術であることを隠して検査入院と称して入院したことにつき、菅官房長官は当時、「3、4日と聞いている。入院先から(役所に)指示することもできる。代理を置くことは考えていない」と述べ、職務に影響はないとの考えを示し、甘利大臣の病状については、個人のプライバシーの問題だとして、公表を拒んだことがあった。



 しかし、甘利大臣は、当時、極めて重大な局面を迎えているTPP交渉の主担当大臣として、仮に病状が悪いのなら一日も早く代わりの者を立てて、次の体制を整えなければならない状況にあった。短期の代役で問題がないかは、そのときに国民に隠すのではなく、国民が判断すべき問題である。


(6)職務に影響が生じるようなレベルにおいては、政治家の病状にプライバシーはない。国民の知る権利のもと、政治に、いささかの空白も置かないかどうかを国民自らが判断する国民の権利が優先されるのは明らかである。

 今のコロナ渦において、一刻の政治の停滞もあってはならないことは明らかである。しばらく休めば、安倍首相の方がこれらに適切に対処できるというなら、その根拠を国民に説明し、国民の納得のもとでそのような政治を行うべきである。

 「政治家の病状は国民に知らしめるべきではない」などという理由で、国民に秘密裏に、病に冒された首相が、それを隠してこの国難に臨む、などということが、あってはならないとんでもない不正事態である、ということは、あまりにも明らかである。

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「積極的平和主義の旗の下」などと称して、世界中に自衛隊を派兵する安部首相の野望は絶対に阻止しなければならない。 [新安倍政権]

(1)8月15日の終戦記念日の追悼式で、安倍首相は、「我が国は積極的平和主義の旗の下、国際社会と手を携えながら、世界が直面している様々な課題の解決にこれまで以上に役割を果たす決意だ」などと、式辞の中で述べた。


(2)安部首相はこれまで、集団的自衛権を名目に米軍への攻撃に自衛隊が反撃できるようにする解釈や、自衛隊をイラン近海にまで送ることを正当化する理屈として、「積極的平和主義」という題目が唱えられた。

 要するに安部主将は終戦記念日にあたり、「積極的平和主義」の名のもとにこれからは自衛隊を中東にでもどこにでも、世界中に派兵する、などということを、アメリカの主導のもとで行おうということである。

 また、自民党では7月末、敵基地攻撃能力を保有する、つまり先制攻撃が実際にある前、また、敵ミサイルに燃料を注入し始めて準備行為を始めた場合(2003年石破防衛庁長官)になる前でも、相手国の基地を攻撃することを正当化することを提言するに至っている。


(3)しかし、それでは、八紘一宇の名のもと、アジア太平洋に派兵し、日本の覇権を広げようとした軍国主義下の日本と変わらない。

 また、安倍首相らは先の大戦について、いつも戦死者らに対して、「尊い犠牲の上に今の平和と繁栄がある」など言い、国のために戦って亡くなった貴重な行為だと評価するだけで、間違った戦争、間違った国策により多くの悲惨な犠牲を出したことを深く反省し、二度と過ちを繰り返さない、という姿勢がそもそも欠けていると思われる。


(4)そのような安部首相らが、日本をまた、世界に軍隊を派遣し、普通に戦争のできる国にしようとしている、そのことをあろうことか、終戦記念日に世界に宣言した、そして、その計画は着々と実現に向かっている、ということである。我々はそのことに、もっと重大な危機感を持たなければならないと考える。

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唯一の被爆国である日本が、安保条約で米国の核の傘で守られ、核兵器禁止条約にも反対するなどというのは、言語同断である。 [国際問題]

(1)ことしも8月になり、広島、長崎、終戦記念日と、戦争や核軍縮について考える季節がやってきた。

 これまでこのブログでも、唯一の被爆国である日本が、アメリカの核の傘の下で、いつでも核兵器を使うぞ、という体制に守られる、ということでよいのか、などという意見を表明してきた。



(河野外相が、核を含むあらゆる能力で日本を守るという米国と合意したのは不当である)



(日本が核兵器禁止条約をボイコットする態度は許せない)



(核先制不使用宣言に反対する安部首相の申し入れは被爆国首相として絶対に許されない)



(核先制不使用宣言をしない日米韓は、北朝鮮の核実験を批判できない)



(日米共同声明で、「米国が、核使用で日本の防衛に関与する」ことの発表は許せない


(2)唯一の被爆国である日本が、核兵器禁止条約に反対したり、米国の核兵器先制不使用宣言の検討自体に反対したり、つまり、米国が日本防衛のために核兵器を実際に使用することを前提にした確認を、折につけて米国と行うなどして、いざというときは具体的に、米国が日本のために核兵器を使用するように求めていることは、決して許されないものである。


(3)唯一の原爆投下国であるアメリカにしてみれば、原爆の被害者である日本人は、所詮、別の国の者、多くは別の民族、別の肌の色の者である、ということかもしれない。しかし、こと日本人にとっては、同じ日本人が凄惨、まさに筆舌に尽くしがたい被害に遭ったものである。また、原爆の被害の実態は日本では毎年、8月を中心にに被害者の実体験が報道されるとともに、多くの日本人は、小学校から高校に至るまでのどこかで、修学旅行等で広島、長崎の原爆記念館を訪問し、その記録を実際に目にして、また、その他の機会においても、平和教育の一環として原爆の悲惨さ、核軍縮の必要性も学習している。

 つまり、ほとんどの日本人は、原爆の悲惨さを我が事として子供の頃から学習し、知悉しながら、それでも、アメリカが原爆を使用することについて、それを制限していこうとする行動を、国家としては、具体的に起こさず、冒頭に書いた過去の当ブログでの指摘のとおり、核兵器禁止条約に反対し、またオバマ大統領時代、アメリカが各兵器先制使用を行わない宣言を検討した際も、わざわざ反対の意向を伝達するようなことまでしているのである。


(4)結局、日本は、核廃絶などと、高邁なことは言っているけれども、それは、アメリカが現に核兵器を世界で一番保有して、先制攻撃も辞さず、まさに日本に危害を加えるような、あるいは加えたような国は核兵器で攻撃してくれることから、それなら、それ以外の国は、核兵器を持たないようにすれば日本は安心だ、という前提で、核廃絶を訴えているに過ぎない、ということになるのである。


(5)他国、例えば北朝鮮にしてみれば、そのような日本の状況を看破し、日本のような偽善的な建前としてではなく、北朝鮮国民が不当な核兵器による威嚇により理不尽なことを強いられるのを避けるため、あるいは、まさに核攻撃から国民の命を守るために、自らも核武装をする、ということに対して、反論できる理屈はない、ということになってしまうのである。


(6)ほかの、どの国でもない、世界で唯一の被爆国である日本は、原爆の悲惨さを、世界のどの国よりも圧倒的に国民全体で知っているのであるから、いかなる理屈もなく、二度と原爆の被害者を出さないために、原爆を世界から無くしていくことが重要であることを世界で一番知っているのであるから、その核兵器に守ってもらう、日米安保条約を締結しているところまでは、歴史の経緯からやむを得ないと言えるとしても、せめて、アメリカが核兵器先制不使用宣言をするように働きかけていくことについては、特に日米安保体制に問題を生じさせるものではなく、いわば、唯一の被爆国の国民の権利として、実行していくべきである。日本がその先頭に立たなければ、世界のほかの、誰がそれをするのか。

 今まさに日本がこれを実行していかなければ、原爆の被害に遭った多くの同胞に対して、合わせる顔がない、実行していく絶対的責務があると考えるものである。

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