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裁判員裁判での「求刑の1.5倍判決」が最高裁で破棄、そもそも職業裁判官がいるのにどうしてそんな地裁判決が出るのだ。 [刑事裁判問題]

(1) 大阪府寝屋川市で平成22年に、1才の三女を虐待して死亡させたとして傷害致死罪に問われた夫婦に、大阪地裁、大阪高裁はいずれも懲役10年の求刑に対して懲役15年の判決を下していた。

 これに対して最高裁は平成26年7月24日、これを重すぎるとして破棄し、夫に懲役10年、妻に懲役8年の判決を言い渡したことが話題になっているが、1審も2審も、職業裁判官がいるのに、どうして、懲役15年などという判決が下されるに至ったのか、理解できない。過去の判例と比較すれば、職業裁判官が求刑10年に、懲役15年などという意見を出すような事件ではないからである。

(2) 裁判員法67条では、裁判所法77条の規定にかかわらず、過半数では量刑は決められず、重い方から賛成者の数を足していき、裁判員、裁判官双方が入った過半数に達した、一番軽い方の量刑の判決に決定することが規定されている。

 よって、たとえば、裁判員が全員、懲役15年の意見を出しても、それでは判決は決まらず、それに裁判官の最も重い意見の者が加わって初めて判決が決定できる。つまり、裁判官の3人の意見が、6年、7年、9年だった場合、9年に決まる。

(3) 職業裁判官は、裁判員が一致して重い15年の意見を出しているから、ということで、自らの意見も15年に変えた、ということなのだろうか。

 しかし、それはおかしいだろう。それならば裁判員法67条で、「裁判官を含む多数決で決める」とした意味がなくなる。裁判員の意見は、裁判に一定の影響は与えるけれども、裁判員だけでは量刑や裁判の結果は決められない、というのが裁判員法の趣旨だと考えられるからである(但し、無罪の場合は、裁判員法67条で、裁判官だけでは有罪の評議ができないから、「有罪の評議できず」、という形で、裁判員5人の賛成で、無罪を決めることができる)。

(4) まさに、前記の例でいえば、裁判官の3人は6年、7年、9年という意見を出した場合、裁判員の意見が無ければこれまでは真ん中の7年という判決が下されていたところ、裁判員裁判のおかげで、裁判官の中では少数説の「9年」が、多数説となって判決となる、というのが裁判員法の予定する、民意の反映ということだと思われるものである(もちろん、6年という、軽い方の少数説が判決となる場合もある)。

(5) 裁判員の当たり外れにより、大きく判決がぶれるようでは困る。法の安定を害し、被告人としても、運が悪かった、ということでは反省もできない。真にそれが民意だというには法改正が必要である。たった6人、意見が一致したからといって、その意見で裁判がそのままとおる、というのではいけないのである。そういうことはないから安心して、国会は裁判員裁判制度を導入したのである。

 裁判員の意見に引きずられての、求刑の1.5倍などという判決は、今回の最高裁判決を契機に、今後はまず出ないに違いないと考える。


亀岡少年無免許暴走事故判決、故意犯と過失犯を峻別し、この問題を冷静に考えて欲しい。 [刑事裁判問題]

(1) 平成24年4月、集団登校の小学生らに18才少年の無免許の車が突っ込み、10人が死傷した事件で、平成25年2月19日、京都地裁は被告の少年に5年以上8年以下の不定期刑を宣告した。

(2) 遺族は、危険運転致死罪の適用を求めたのに対して検察は、無免許下での、居眠りの過失事犯であって、危険運転ではなかったとして、自動車運転過失致死罪と無免許運転罪で起訴していた。

 危険運転致死罪は、危険運転、つまり暴走行為や、飲酒による酩酊運転を行う故意があって、その結果、人を死に至らしめる、ということが必要である。少年は無免許ではあったが、無免許運転を繰り返すことにより一定の運転能力が身に付いており、危険運転を行ったとは言えない、などと説明されている。

 これに対してワイドショーの識者などからは、無免許運転を繰り返すと違法性が小さくなるのか、などという批判がなされているが、失当である。無免許運転を繰り返すと、無免許運転の違法性は増すが、徐々に危険な運転ではなくなり、事故当時、危険運転罪に問えるほどの危険性は本件運転にはなかったというもので、検察の見解は正当である。

(3) 本件は、無免許運転の故意はあったが、危険運転の故意はない、事故についていえば過失犯なのである。過失犯と故意犯は、結果は多数の死亡事故ということで同じであっても、厳密に峻別して評価されなければならない。

 事故により人の死という結果が発生した場合、遺族にとっては決して許せない事態が生じていることは同じであるが、故意犯、過失犯、そして罪とならない場合があるのに、遺族感情に引きずられて、すべて同じように考えてしまってはいけない。

 福知山線脱線事故裁判などでも、遺族感情を前面に出した感情的な感情的な批判が多かったが、マスコミや社会は、これらを峻別して、冷静に考えて欲しい。http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2010-12-22-1 http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11 http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2010-04-25

(4) 過失犯を結果の重大性から重く罰するということを続けると、過失犯の本質、つまり、たまたま最悪の結果が生じた場合が責められるが、結果の発生しない過失行為を規制しない限り、痛ましい事故は減らない、という事実に対応できなくなる。

 まずは、暴走行為や飲酒運転行為は、それ自体が極めて危険で、社会において存在してはならないものであるということに思いを致し、事故の発生、死傷の結果の発生の有無を問わず、暴走行為や飲酒運転行為があったというだけで、厳格に摘発した上で、もっと重罪に処すべきである。また、無免許運転も同様である。

(5) 遺族感情はともかく、社会としては、過失犯において、追及すべきは過失行為、つまり原因行為の客観的不当性であって、それによってこそ、過失犯、特に交通事故事案の発生を防止できるはずである。

 過失犯においては、たまたま発生したりしなかったしする結果ではなく、行為自体の客観的不当性を重視して、行為自体を重く罰する方向に変えるべきだと考える。


さいたま連続不審死事件で死刑判決、その後の裁判員の会見を見ても、やはり裁判員制度は廃止すべきだ。 [刑事裁判問題]

(1) 埼玉県で3人の男性が不審死し、交際相手だった37歳の女性が殺人罪で起訴されていたさいたま地裁の裁判員裁判で、4月13日、死刑判決が下った。

(2) この裁判では約100日間、多いときは週に3~4日も法廷が開かれ、裁判員の負担は非常に大きなものがあり、仕事を持った普通の社会人は裁判員として裁判に参加しようがなかったものと思われるが、男性の裁判員の一人が実名で顔の撮影も許し、取材に応じていた。

(3) この、裁判員だった男性は、判決の当日、終始笑顔で、料理屋のようなところでテレビの独占インタビューに応じていた。

 しかし、この裁判員の意見も踏まえて、死刑判決が下されたのである。人の命を権力によって絶つ、死刑判決を下しているのに、その判断についてインタビューされて、終始笑顔でいて、厳粛さは感じられなかった。

(4) 多くの裁判員の中には、そういう人も当然いるだろう。100日もの裁判期間が予想され、普通に仕事をもったまともな裁判員候補者の多くが辞退し、そういう人が残ってしまったのかもしれない。

 しかし、私たち国民の代表として死刑判決を下すのが裁判員なのである。 私たちの代表が、笑いながら死刑判決を下す、という事態を、私たちは容認できるのだろうか。

(5) 多くの場合はそうではないとしても、たとえ少数でも、そういう人に国家の裁判権を行使されて、死刑判決が下されていく、ということは、死刑判決を受けて死んでいく被告人の生命の尊厳という観点から、国民はそれを許してはいけないと考える。

 その意味からも、裁判員制度は、廃止されるべきだと考える。


光市母子殺人事件、18歳1ヶ月の少年に死刑を科するべきではない。 [刑事裁判問題]

(1) 2月20日、最高裁は、光市母子殺人事件の被告人に対して、死刑を言い渡し、この裁判は確定することになった。

 しかし、当時、18歳1ヶ月の少年だった被告人には、この事件の態様においては、死刑を科してはならないと考える。

 2010年2月の、宮城県の18歳少年による3名殺害事件の死刑判決の際にも当ブログで指摘したが、http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2010-11-20

その事件と比べても、前科もなく、計画性のない、2人殺人の本件ではますます、少年の年齢も18歳1ヶ月とぎりぎりだったのだから、本件において、死刑を科するべきではない。

(2) 今回の最判では、宮川裁判官の反対意見に、当ブログも賛同する。18歳から死刑を科すことができるとなっているが、それは、死刑を科せる最低年齢が18歳ということであって、18歳からはそれの年齢の者と全く同じように死刑を科すのが相当であるというのでは、少年法の趣旨も全く生かされないいうべきである。

 人間は成長する。25歳になってやっと精神的にあるいは犯罪抑止力的に大人になる、ということもあるではないか。18歳から死刑を科すことはできるが、それは、たまたま18歳だけれども、綿密に計画を立て、冷酷非道に大人として殺人を犯したなどという場合に初めて、現実に死刑を科すことができる、というのが法の趣旨であると考える。

(3) これに対して、金築裁判官の補足意見のように、18歳で死刑を科すことに法律は制限を付けていない、というのは、法の字面だけを追った、皮相な解釈であると考える。

(4) あるいは、今回、4人の判事のうち、宮川裁判官が反対意見を述べている、というのも重視されるべきである。もう一人、反対する裁判官がいれば、この判決で死刑は科されていない。そんなあいまいな基準で、人の命を国家が断つことはできないはずだ。

 無実かどうか、ということとともに、この事件で死刑を科してよかったのか、という観点から、裁判で、人間は、間違うかもしれないのだから、取り返しの付かない死刑判決は、下してはいけないのである。

 以下に、金築補足意見、宮川反対意見の順にそのまま引用する。

裁判官金築誠志の補足意見は,次のとおりである。
私は,多数意見に賛成するものであるが,宮川裁判官の反対意見に鑑み,若干の意見を付加しておくこととしたい。
反対意見の結論は,再度,量刑事情を検討して量刑判断を行う必要があるから,その点の審理を尽くさせるため,本件を原審に差し戻すことが相当というものである。
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そこで,原審における審理経過をみてみると,被告人が,第1次上告審に至り従前の供述を翻して,犯行の態様,故意等につき新たな供述(以下「新供述」という。)を始めたため,原審においては,12回にわたって公判が開かれ,多数の書証,証人等が取り調べられたほか,詳細な被告人質問が実施された。弁護人の請求にかかる証拠で却下されたものもあるが,重要な証拠であるにもかかわらず却下したのは不当であるとして異議が申し立てられたものはない。取り調べた証拠の立証趣旨は,犯行態様,故意等のいわゆる罪体に関するものが多いが,そうした証拠の中にも,同時に,反対意見が問題とする犯行時の被告人の精神的成熟度をみる上でも重要な意味を持つものが少なくない。特に被告人の生育歴,生育環境と被告人の精神的発達度,犯行時の心理状態等については,弁護人の請求によりB作成の犯罪心理鑑定報告書及びC作成の精神鑑定書が取り調べられ,各作成者の証人尋問も行われている。また,第1審及び差戻し前の控訴審においては,当時は被告人が起訴事実をほぼ全面的に認めていたため,主として量刑事情に焦点を当てた審理が行わ
れ,少年調査記録中の鑑別結果通知書及び少年調査票も取り調べられている。


もっとも,上記犯罪心理鑑定報告書が提示する「母胎回帰ストーリー」を,原判決は排斥している。「母胎回帰ストーリー」は,被告人は母子一体の世界を希求する気持ちが大きかったところ,被害児を抱く被害者の中に母親類似の愛着的心情を投影し,甘えを受け入れて欲しいという感情から抱き付いたのが犯行の発端であり,被害者を殺害後に姦淫したのも自分を母親の胎内に回帰させる母子一体化の実現であるなどとするものであるが,この見解は,被告人の新供述を前提としている。しかし,新供述が基本的な部分において信用できないものであることは,原判決が詳細,適切に検討しているとおりであって,反対意見においても,被告人の弁

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解は不合理であり,「母胎回帰ストーリー」は採用できないとされている。また,C鑑定書も,犯行の動機,経緯について,被告人の新供述を前提として考察を加えている。したがって,母親の自殺,父親の暴力等が被告人の人格形成に大きな影響を与えたことは,被告人のために酌むべき事情であるが,上記鑑定書等によって直接これを犯行の動機等に結び付けることは,相当ではない。

原判決は,生育環境に上記のような同情すべきものがあったこと,知能水準は中程度であって知的能力には問題がないが精神的成熟度は低いことを認定した上,独り善がりな自己中心性が強いことや,衝動の統制力が低いことなど,被告人の人格や精神の未熟が本件犯行の背景にあることは否定し難いとしつつ,本件犯行の罪質,動機,態様,結果に鑑みると,これらの点は量刑上十分考慮すべき事情ではあるものの,被告人が犯行時18歳になって間もない少年であったことと合わせて十分斟酌しても,死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情であるとまでは
いえないと判断している。原審は,被告人の人格形成上の問題,精神的成熟度について,審理することを怠ってはいないし,判決においてこれを等閑視しているわけでもないのである。

反対意見は,精神的成熟度が少なくとも18歳を相当程度下回っていることが証拠上認められるような場合は,第1次上告審判決(最高裁平成14年(あ)第730号同18年6月20日第三小法廷判決・裁判集刑事289号383頁)がいう
「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」が存在するとみることが相当であるとし,原審はこの観点からの審理・検討が不十分であるとするものである。

しかし,精神的成熟度が18歳を相当程度下回っているかどうかを判断するためには,18歳程度の精神的成熟度とは,どのような精神的能力をどの程度備えて

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いなければならないか,どのような要件を満たすものでなければならないかを明らかにした上で,それとの乖離の程度を判定しなければならないが,人の精神的能力,作用は極めて多方面にわたり,それぞれの発達度は個人個人で偏りが避けられないものであるのに,果たして,そのような判断を可能にする客観的基準や信頼し得る調査の方法があるのであろうか。少年法51条1項が死刑適用の可否につき定めるところは18歳未満か以上かという形式的基準であり,精神的成熟度及び可塑性の要件を求めていないことは,反対意見にもあるとおりであり,少年法のその他
の規定で年齢が要件となっているものの中にも,実質的な精神的成熟度を問題にしている規定は存在しない。本件の第1次上告審判決はもちろん,いわゆる永山事件の最高裁判決(最高裁昭和56年(あ)第1505号同58年7月8日第二小法廷判決・刑集37巻6号609頁)も,精神的成熟度が18歳未満の少年と同視し得るかどうかを判別して,死刑適用の可否を判断すべきことを求めているものとは解されない。

精神的成熟度は,いわゆる犯情と一般情状とを総合して量刑判断を行う際の,一般情状に属する要素として位置付けられるべきものであり,そのような観点から量刑に関する審理・判断を行った原審に,審理不尽の違法があるとすることはできないと考える。


裁判官宮川光治の反対意見は,次のとおりである。
1 私も,多数意見と同じく,被告人の本件行為は,(1) 被害者に対する殺人,強姦致死,(2) 被害児に対する殺人,そして,(3) 窃盗にそれぞれ該当すると考える。被告人の弁解は不合理であり,遺族がしゅん烈な被害感情を抱いていることは深く理解できる。被告人の刑事責任は誠に重い。私が多数意見と意見を異に

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するのは,次の点である。被告人は犯行時18歳に達した少年であるが,その年齢の少年に比して,精神的・道徳的成熟度が相当程度に低く,幼いというべき状態であったことをうかがわせる証拠が本件記録上少なからず存在する。精神的成熟度が18歳に達した少年としては相当程度に低いという事実が認定できるのであれば,そのことは,本件第1次上告審判決(最高裁平成14年(あ)第730号同18年6月20日第三小法廷判決・裁判集刑事289号383頁)がいう「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」に該当し得るものと考える。また,精神的成熟度が相当程度低いという事実が認定できるのであれば,強姦の計画性を含め本
件行為の犯情等の様相が変わる可能性がある。以下,詳述する。


2 いわゆる永山事件の差戻し前控訴審は,被告人が劣悪な生育環境であったことをとらえ,「犯行当時19歳であったとはいえ,精神的な成熟度においては実質的に18歳未満の少年と同視し得る状況にあったとさえ認められるのである」として,これを量刑判断の一事情として1審の死刑判決を破棄し,無期懲役を言い渡した(東京高裁昭和54年(う)第1933号同56年8月21日判決・東高時報32巻8号46頁)。これに対し,最高裁は,犯行時19歳3か月ないし19歳9か月の年長少年であった「被告人の精神的成熟度が18歳未満の少年と同視しうることなどの証拠上明らかではない事実を前提として本件に少年法51条の精神を及ぼすべきであるとする原判断は首肯し難い」として,破棄し差し戻した(最高裁昭和
56年(あ)第1505号同58年7月8日第二小法廷判決・刑集37巻6号60
9頁)。この最高裁判決は,被告人の精神的成熟度が18歳未満の少年と同視し得ることが証拠上明らかな場合に少年法51条の精神を及ぼすことができるかどうかについては,これを否定してはいない。本件第1次上告審判決は,被告人の生育環

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境について,「実母が被告人の中学時代に自殺したり,その後実父が年若い外国人女性と再婚して本件の約3か月前には異母弟が生まれるなど,不遇ないし不安定な面があったことは否定することができないが,高校教育も受けることができ,特に劣悪であったとまでは認めることができない」とした上,「結局のところ,本件において,しん酌するに値する事情といえるのは,被告人が犯行当時18歳になって間もない少年であり,その可塑性から,改善更生の可能性が否定されていないということに帰着する」が,そのことは,「相応の考慮を払うべき事情ではあるが,死刑を回避すべき決定的な事情であるとまではいえ」ないとしている。第1次上告審判決は,被告人の生育環境が特に劣悪であったとまでは認められないとし,被告人が18歳になって間もないということでは死刑を回避する決定的事情とはなり得ないといっているのであり,被告人の精神的成熟度が18歳未満の少年と同視し得る状態であったことが証拠上認められる場合に,それが,「死刑の選択を回避するに足りる特に酌量すべき事情」に該当するということを,否定してはいない。

3 もっとも,原判決が指摘しているとおり,少年法51条1項は,死刑適用の可否につき18歳未満か以上かという形式的基準を設けているのであり,精神的成熟度及び可塑性の要件を求めていないのであるから,精神的成熟度が不十分であるからといって少年法51条1項を準用し死刑の選択を回避すべきであるということには直ちにならない。しかしながら,「少年司法運営に関する国連最低基準規則(北京ルールズ)」(1985年)は,少年保護の基本理念に基づいて,「死刑は,少年が行ったどのような犯罪に対しても,これを科してはならない」としているのであり(17条2項。「少年」とは,各国の法制度の下で犯罪のゆえに成人とは異なる仕方で扱われることのある児童もしくは青少年である。2条2項(a)),

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留保的表現がなく,およそ,少年について死刑の選択は許さないという考えが明瞭である。18歳以上の少年に死刑を認める少年法51条1項は,この趣旨に合わない。もっとも,上記北京ルールズは,国連総会で採択された決議にすぎず,法的拘束力はない。北京ルールズ自らも「この規則の実施は,各加盟国の経済的,社会的・文化的条件に応じて進められなければならない」(1条5項)としている。我が国は,指導理念としてこれを尊重し,実現に向けて努力すべきものであり,少なくとも,少年法51条1項は死刑をできる限り回避する方向で適用されなければならないと思われる。また,刑法41条は14歳未満の者の行為は罰しないとしており,16歳未満の者は故意の犯罪行為により被害者を死亡させた場合であっても家庭裁判所から検察官へ原則送致はされない(少年法20条2項)。これらの背景には,行為規範の内在化が特に進んでいない年少少年の行為については,刑法的に非難することは相当でなく,刑罰による改善効果も威嚇効果(犯罪防止効果)も期待できないという考えがあると思われる。


以上を総合して考えると,精神的成熟度が少なくとも18歳を相当程度下回っていることが証拠上認められるような場合は,死刑判断を回避するに足りる特に酌量すべき事情が存在するとみることが相当である。

4 少年刑事事件の審理においては,「少年,保護者又は関係人の行状,経歴,素質,環境等について,医学,心理学,教育学,社会学その他の専門的智識特に少年鑑別所の鑑別の結果を活用」するよう努めることが要請されている(少年法50条,9条,刑訴規則277条)。この専門科学的解明の要請は,本件のように死刑を適用するかどうかが争点となっている事件では,特に強く働くものといわなければならない。本件では,少年調査記録のうち鑑別結果通知書(1審甲218号証)

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と少年調査票(1審甲219号証)が取り調べられている。鑑別結果通知書の総合所見は,被告人の「内面の未熟さが顕著である」とし,自殺した「母親と父親からの見捨てられ感は強烈」であるとしている。少年調査票の家庭裁判所調査官3名の意見は,小学校入学前後から激しくなった両親の諍い,父親の暴力,被告人の被虐意識,中学1年時の母親の自殺等が被告人の精神形成に影響を与えたことを示している。父親の暴力は,1審,第1次控訴審,第1次上告審では取り上げられていないが,12歳時における母親の自殺とともにこの事実が被告人の幼少年期において与えた影響をどう評価するかは,本件の重要なポイントでもあると思われる。以上について,原判決は,同情すべきものがあり,人格形成や健全な精神の発達に影響を与えた面があることも否定できないが,「経済的に何ら問題のない家庭に育ち,高校教育も受けることができたのであるから,生育環境が特に劣悪であったとはいえない」とするにとどめている。しかしながら,家庭裁判所調査官は,「3歳以前の生活史に起因すると思われる深刻な心的外傷体験や剥奪,あるいは内因性精神病の前駆等により人格の基底に深刻な欠損が生じている可能性も疑える」と記述しているのであり,鑑別結果通知書中においても,顕著な内面の未熟さのほか,幼児的万能感の破綻,幼児的な自我状態が指摘されている。そして,家庭裁判所調査官は心理テスト(TAT:絵画統覚検査)結果の解釈として,「いわゆる罪悪感は浅薄で未熟であり,発達レベルは4,5歳と評価できる」と記述し,バウムテスト(ツリーテスト)でも「幼稚で自己愛が強く」と記述している。これについて,原判決は,「TATの結果のみから精神的成熟度を判断するのは相当でない上,前後の文脈に照らすと,この記載は,主として被告人の罪悪感に関する発達レベルを評価したものと解される」と述べているが,それ以上の付言はない。罪悪感に関する発達
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レベルとは,行為規範の内在化がどの程度進んでいるかということであり,行為の是非を弁別する能力の発達レベルそのものであろう。それは,精神的成熟度の重要な指標と考えるべきものでもあろう。「4,5歳」であるとの評価には疑問もあるが,家庭裁判所調査官の認識は被告人においては行為規範の内在化はかなり遅れており,人格的成長は幼いというものであったと思われる。原審においては,これら少年調査記録の内容を基に,被告人の人格形成や精神の発達に何がどのように影響を与えたのか,犯行時の精神的成熟度のレベルはどのようなものであったかを分析し,測るという作業が必要であった。

5 本件においては,被告人側から,B教授の「犯罪心理鑑定報告書」(原審弁9号証)とC教授の「精神鑑定書」(原審弁10号証)が証拠として提出されており,2人の証人尋問が行われている。前者は,それぞれ2時間前後をかけた8回の被告人面接調査を行い,幾つかのテストを実施したほか,父親に4回,母親の妹,義母,高校時代の指導教員,同級生2名にそれぞれ1回の面接調査を行い,各判決書,公判記録,捜査段階の調書,書簡等の資料,前記少年調査記録を参照した上での,犯罪非行臨床心理学の専門家としての知見に基づく鑑定報告である。後者は,被告人とそれぞれ2時間をかけて3回の面接調査を行い,父親,友人1名,被告人の祖母及び母親の妹に面接調査を行い,その他捜査段階の調書を除く前記資料を参照した上での,精神医学,とりわけ青少年の精神病理に関する研究者・医師としての専門的知見に基づく鑑定報告である。B鑑定における「母胎回帰ストーリー」という動機が存在するという鑑定意見は採用できない。しかし,被告人が母親の自殺による急激な自己愛剥奪の影響を強く受けていること,父親との関係での被虐待経験の後遺症があること,身体的性の成熟に対してそれを統制できる精神的成熟が著

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しく遅れていること,人格の統合性,連続性が乏しく,社会的自我の形成がなされていなかったこと等の意見は,無視できない説得力を有していると思われる。また,C鑑定意見のうち,被告人の人格発達は極めて幼いこと,その原因は,被告人が父親の暴力に母親とともにさらされ,その恐怖体験が持続的な精神的外傷となっており,またそうした暴力を振るう父親に恐怖しながら,強い父親に受け入れてもらいたいという矛盾する感情に引き裂かれてもいること,こうした生育歴の中で被告人は同年齢の者よりも幼い状態であったが,12歳の頃,母親が苦しみ抜いて自殺したことを目撃するという強烈で決定的な精神的外傷体験があり,この結果とし
て,被告人の精神的発達はこの時点の精神レベルに停留しているところがあるという意見は,説得力があると思われる。二つの鑑定意見は,被告人が述べることのみによらず総合的に判断しているとみることができるが,相互に関連し合い,前記少年調査記録とも相応している。

6 原判決は,被告人がそれまでの供述を原審において翻し虚偽の弁解を弄しているとしてこれを厳しく批判し,このこと自体,被告人の反社会性が増進したことを物語り,改善更生の可能性を大きく減殺する事情といわなければならないと指摘している。私も,被告人の原審における供述態度を誠に残念に思う。しかし,人は関係の中でしか成長しないのであって,人間的成熟が12歳かそれを幾ばくか超えたところで停滞しているのであれば,その状態で教育的処遇を受けることなく,拘置の歳月を8年,9年と過ごしたとして,反省・悔悟する力は生まれない。不合理で破綻しているとしかみることができない弁解に固執していることは事実であるが,これを原判決のように「反社会性が増進した」と厳しく批判するのは酷であろう。被告人は,適切な処遇を得れば,時間を必要とするが,自己を変革し犯した罪

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と正しく向き合うよう成長する可能性があるとみることもできるのであり,前記鑑別結果通知書も,被告人について,公判段階を通じ,被害者の苦悩についての厳しい現実等に直面させる中で,真に贖罪の気持を喚起させることが必要であるが,その作業は,事件の重さに応じた相応の期間を要し,また,精神的なサポートを受け,ある程度安定した状態にないと困難であるため,定期的なカウンセリングが望まれるとしている。記録によると,被告人は精神安定剤を多量に服用するという日々が続いていたことがうかがわれるが,平成16年2月,自ら進んで教誨師による
教誨を受け始める等,年月を経て,現在は,次第に事実と向き合い,贖罪の気持ちを高めつつあることをうかがうことができる。

7 被告人の精神的成熟度が相当程度低いということが認定できるのであれば,本件犯行の犯情(計画性,故意の成立時期等)及び犯行後の行動に関わる情状についての理解も変わってくる可能性がある。本件は,被告人の人格形成や精神の発達に何がどのように影響を与えたのか,犯行時の精神的成熟度のレベルはどのようなものであったかについて,少年調査記録,B鑑定及びC鑑定を的確に評価し,さらには必要に応じて専門的智識を得る等の審理を尽くし,再度,量刑事情を検討して量刑判断を行う必要がある。したがって,原判決は破棄しなければ著しく正義に反するものと認められ,本件を原裁判所に差し戻すことを相当とする。


JR西脱線事故、山崎前社長の無罪は当然だ。被害者の理由のない怒りを正当なものとして報道するな。 [刑事裁判問題]

(1) 1月11日、JR西・福知山線脱線死亡事故で、業務上過失致死罪に問われていた山崎元社長について、神戸地裁が無罪の判決を言い渡した。

(2) この事故は、運転手が急カーブの現場を、制限速度を大幅に超過して通過したために起こったものであって、確かにATS(列車自動制御装置)を付けていれば事故は防げたが、そんなものが付いていない急カーブくらい、全国にいくらでもある。

 あるいは、赤信号で止まらない列車を止めるATSが、すべての信号機のところにあるか、といえば、そうではないだろう。本件で山崎氏の刑事責任を問うことは不当で、起訴したこと自体が間違っていたと考える。

(3) 全国の鉄道は、順次、安全策を強化していくべきものであり、その過程で、予期せぬ運転手の「暴走」があったような場合、事故が防げないのは当然である。

 その場合、運転手が刑事責任を負い、鉄道会社はその使用者として賠償責任を負うし、運転手の管理の不徹底の責任が厳しく問われるべきは当然であるが、それが、管理者としての刑事責任を問うレベルに至る、個人の過失があったのか、というのは全く別の問題である。

(4) 遺族の、鉄道会社や鉄道システム全体に対する怒りと、特定の個人が刑事責任を問われないことの怒りとは、全く別のものであり、特に刑事事件で被告が無罪となった場合は、「冤罪」の可能性も高まったものであって、2010年12月の、裁判開始の時点の当ブログにも書いたが、遺族には極めて冷静な対応が求められるところである。

http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2010-12-22-1

(5) それに対して、新聞各社は、「裁判て何だ」「傍聴席で絶句」などと、遺族の、本来、理由のない怒りを正当なものとして報道し、無罪判決が、遺族の気持ちを無視した不当なものであるかの論調の紙面を構成しているのは、不当としか言いようがない。

(6) 運の悪い人を刑に問うのではなく、真に悪い人のみを刑に問う、ということでなければ、刑罰による犯罪の抑止にならないものである。

 犯罪報道は、言うまでもなく、悪いものは悪い、悪くないものは悪くないという報道が必要であるところ、被害者の怒りをそのまま報道すると、それが歪んでしまう。

 本件のような無罪判決の報道に、被害者の怒りを正当なものとして取り上げるようなことがあってはならない。


危険運転致死幇助で2年の実刑判決、酔って、車に同乗しただけなら、罪に問うのは不当だ。 [刑事裁判問題]

(1) 2月14日、さいたま地裁は、飲酒運転と知りながら知人が運転する車に同乗し、対向車と衝突して6人を死傷させたとして、危険運転致死傷罪の幇助罪に問われた2人の男性に対して、懲役2年の実刑判決を下したが、不当である。

(2) 飲み屋でかなり酔ったところへ、同じくかなり酔った人から、車で送っていく、と言われて一緒に乗ったら、その車が死傷事故を起こした、という場合に、このまま送ってもらうと危険運転致死傷罪の幇助に問われると、規範意識が適切に働いて、「乗らないでおく」という行動を取れる保証があるだろうか。

 あるいは、自ら酔った時点で、運転して送ってくれる人がどの程度酔っているかを判断し、このまま運転すると単なる酒酔い運転ではなく、「危険運転」にあたる、ということを、自ら酔った頭で判断すること自体が難しい場合も多々あるように思われる。

 また、一緒に乗っただけでは、法律的に、危険運転をする正犯者の行為を、具体的に、何をどう幇助したか、助けたか、容易にしたか、という問題もある。また、不作為犯を罰するとすると、作為義務の存在が必要であるが、「酔った人が運転する車に一緒に乗った」、というだけでは曖昧過ぎると考える。

(3) なお、運転者自身の場合は、酔うと規範意識が鈍磨することを事前に想定し、酒場にはそもそも車で運転して行かない、などという行動が求められるとともに、常日頃から、酒は1滴でも飲んだら運転はしないと、酔った時にも鈍磨しないほどの規範意識を植え付けることが、運転をする者には求められている、ということになる。

(4) 運転者自身でない場合は、自ら当該の車を提供したような場合は、まさに道具を提供して幇助した場合にあたるし、あるいは、車を置いて帰ろうとしていた運転者に、送っていくように頼んだ、教唆犯の場合、ないしは、車で飲みに行くときから帰る時までずっと一緒で、共同正犯が問えるような場合ならともかく、酔って、帰るに際して、車に乗せてもらった、などという場合に、危険運転致死幇助罪を問うのは、不当だと考える。


JR福知山線脱線事故での前社長の無罪主張、遺族も冷静に裁判の行方を見守ってほしい。 [刑事裁判問題]

(1) JR福知山線脱線事故について、業務上過失致死罪で起訴された裁判で、山崎前社長は無罪を主張した。

(2) この裁判は極めて難しい裁判である。事故当時の、安全対策の最高責任者の刑事責任が問われているのであるが、後付けの理由ではなく、当時、この事故が起こる前に、この場所にどのような安全装置を設置しておく義務があったのか、また、それを怠ったことが刑事責任を問われる程度のものなのか、ということが厳格に判断されなければならない。

(3) そもそもこの事件は、運転士が制限時速を大幅にオーバーして起こった事故につき、刑事責任が問われているのであるが、同じように制限時速をオーバーした場合に事故が起こるような場所はなかったのか。

 そこにATS(自動列車停止装置)が設置されていないことが、重大な過失で、たまたま結果が発生していないだけのことなのか。

(4) あるいは、日本中の鉄道で、本件事故と同じような速度オーバーがあったら脱線するような箇所は、財政を逼迫させようが大赤字であろうが、直ちにATSを設置し、それまでは鉄道の運用を停止するのか。

 そんなことは事前には誰も求めずに、結果が起こった鉄道の責任者だけ、刑事責任を問おうというのか。

(5) この裁判にはこのような極めて難しい論点が多々ある。速度オーバーでこのカーブに進入した運転士の責任は極めて重大で、その使用者であり、何といっても結果として事故を防げなかったJRの責任は極めて重大である。しかし、それと、個々の担当者の刑事責任が問われる、ということとは全く違う。

(6) 前社長が刑事責任を認めないのはけしからん、などという、あまり法律的でない被害者感情の報道は不適切である。

 この裁判は、純粋に刑事責任の有無が問われるべきものである。遺族も冷静に裁判の行方を見守ってほしい。


3人殺傷の少年、仙台地裁の裁判員裁判で、死刑を下すべきではない。 [刑事裁判問題]

(1) 2010年2月、宮城県石巻市で当時、18歳の少年が元交際相手の女性の家へ押し掛け、女性の姉ら2人の女性を殺害し、男性1人に重傷を負わせ、元交際相手の女性をその後も連れ回した事件の裁判が仙台地裁で行われ、11月19日、死刑が求刑された。

(2) 検察側は、この少年が、保護観察中にこの事件を起こしていることを重視し、凄惨かつ残忍な事件で、この少年に更生の可能性はないと主張し、光市母子殺人事件で最高裁が死刑を選択していることなども引用し、また、永山基準なども指摘して、死刑に処することを主張した。

(3) 確かに、過去の裁判官による裁判の基準、判例の基準をあてはめると、死刑は免れない事件のように思われる。

 しかし、今回は、裁判員制度で、少年に死刑が求刑された初めての事件である。市民の感覚から、この少年に更生の可能性はないのか、死刑しか選択の余地はないのか、考えて頂きたい。

(4) たった18年間で、人間はどこまで成長、成熟できるのだろうか。中には、人間の尊さ、人を殺してはいけない、という規範を理解できずに18歳になる少年もいるのだろう。

 しかし、それは、少年をそのようにしか育てられなかった、親や社会の責任であって、少年の責任は小さいと言わざるを得ないのではないだろうか。

 20歳を過ぎれば、そこから先は、どんな環境に生まれようと、どんな育ち方をしようと、自分で、社会的相当性をもった存在になっていく義務がある、ということだとしても、18歳の少年に、そうなれなかった責任を問うというのは、では一体、何歳の頃に、どういう心がけを持つべきだった、どういう自己鍛錬をして、「凶暴な自分」をどのように是正していくべきだった、というのだろうか。

 普通は、成人式の時、二十歳の時に人は、これからは大人として、責任をもった活動を求められる、というのが通常なのである。その2年前の18歳の時に、命をもって罪を償え、というのは、責任が重すぎるのではないだろうか。

(5) そのような検討もなく、まさに、18歳が犯した殺人の結果だけを見て、有無を言わせす社会から抹殺する、死刑の判決を下す、というのは反省や成長、成熟の機会を得られずにそこまで育ってしまった少年に酷であると考える。

 あるいは、検察官は、更生の可能性がない、と言う。しかし、どうしてそんなことを断言できるのか、更生の可能性があったのに、あと20年もすれば、立派な考えを持った一人前の大人になったかもしれないのに、その前に命を断ってしまって、その可能性を奪う、「更生の可能性がない」などと、何の根拠があって言えるのか。そんなことは断言できないことは明らかであろう。

(6) 裁判員は、被告人の少年のこれまでの18年の人生について、どこが、どう悪かったか、18歳の少年が起こした殺人事件について、彼をそのように育てた親や社会の責任ではなく、彼自身の責任をどうして問えるのか、ということ、また、たった18歳の今から、何十年も経って死刑以外で死ぬまでに、更生する可能性はないのか。今とは別人のような、立派な大人になる、その可能性を断って、そうなる前に少年の人生をそこで終わらせてしまってよいのか、考えてもらいたい。

(7) 裁判員制度では、過去の、職業裁判官による裁判の判例は、参考程度でしか無いはずである。国民すべてが、自らのこととして、裁判のこと、犯罪のこと、被告人のこと、死刑のことを真剣に考えて、結論を出さなければならない。


裁判員制度、初の死刑判決。ますます廃止の必要性が明らかになった。 [刑事裁判問題]

(1) 横浜地裁で11月16日、裁判員制度で初めての死刑判決があった。裁判官は最後に、「控訴を勧めたい」と異例の説諭を行った、とのことである。

(2) 自ら死刑判決を下しておきながら、被告人に対して、それを不服として控訴し、高裁の判断を仰ぐべきだ、などというのでは、地裁の判決への信頼、権威も無くなってしまう、というものである。

 しかし、死刑判決を下す裁判員の負担を考えて、裁判長が、「死刑判決を下したといっても、自分たちの判断が最終判断ではなく、高裁や最高裁が最終判断を行うのだ」という、そのような「言い訳」「逃げ道」を作ってあげたものと思われ、裁判長のこの発言は、特に非難に値するものではないと考える。

(3) しかし、それはつまり、一般人が裁判に参加する場合、本来、一番重要なはずの第一審が、一応、判決は言い渡すものの、完全に責任を持って下されるのではなく、本当の責任は高裁や最高裁に委ねる、ということになり、三審制の趣旨が歪められた、ということにもなってしまうのである。

(4) なまじ、裁判員制度などを導入し、一般人が裁判に参加する制度を作ったばかりに、極めて重要な、死刑事件の第一審訴訟を「不完全なもの」にし、その「不完全なもの」である第一審判決を下すために、わざわざ何日間も裁判員を拘束し、あるいは、今後、死ぬまで、苦しい経験と記憶を裁判員に強いる、そのような裁判員制度は間違っている、速やかに廃止すべきだ、と言わざるを得ないものである。

(5) 再三、言うように、裁判員制度は、国民自らが、刑事裁判を国民の手に取り戻す、そのためには仕事も家事も休む、死刑判決も毅然として、断固として下す、それが国民全体の義務でありまた権利である、との強い覚悟があって初めて、正当なものとして存続できるものである。

 そのようなものが全くなく、上から押し付けられた制度で、裁判員となった国民に対して、被害者の死や被告人の死という事態に直面させて、平穏な人生、平和な日常に大変な衝撃を与え、その生活やその後の平穏な人生を乱させ、そして、不十分な判決を下すという結果に手を下させる、そのような裁判員制度が、このまま続いてよいはずがない。

(6) 今回の、裁判員制度における初めての死刑判決で、裁判員制度廃止の必要性は、ますます明らかになったというべきである。


改めて、死刑判決の可能性もあって、裁判員制度には反対である。 [刑事裁判問題]

(1) 耳かき店員とその祖母の2人を殺害した事件で、東京地裁で裁判員裁判が始まったが、2人を殺していることから、死刑求刑が予想されている。

 裁判員に死刑かどうかを決めさせるのは残酷である。一般市民に死刑かどうかを判断してもらわなければならない、という意味でも、裁判員制度には反対である。

(2) 死刑判決は、2人を殺したら死刑、などという簡単なものでは決してない。各種状況を勘案し、死刑になる場合もあるし、そうでない場合もあるのである。

 裁判員にしてみれば、死刑判決をくだせば、被告人の命を奪うことになるし、死刑判決を回避すれば、正義に反する、ないしは遺族の思いを無にする、という二律背反に悩まなければならない。

 また、近い将来、2人ではなく、3人を殺して初めて死刑が相当であるなどと、判例が変わるかもしれない。あるいは、そもそも死刑は廃止されるかもしれない。そうすると、現在の死刑判決を下した裁判員は、間違って死刑判決を下してしまった、間違って人を死なせてしまったことになり、その思いに、一生、苛まれることになる。

(3) これまでの人生で、「切った張った」とは全く無縁の平和な生活を営んでいた市民が、その世界に直面させられるどころか、自ら他人の命を切る、手をくださせられる。しかも、間違った死刑判決を下す危険、決して奪ってはならなかった命を奪う危険まで、一般市民に押しつけるのである。

 これは、憲法の禁じる、その意によらざる苦役を、裁判員に与えることにならないだろうか。

(4) 裁判員制度は、決して国民が望み、勝ち取った権利ではない。お上から押しつけられた義務である。そんな大変なこと、苦しいこと、その意によらざる苦役を一般国民に押しつけることなど、決して許されないと考える。

 裁判員制度は、死刑判決もあることから、絶対に反対である。


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