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安易に、死刑を求める考えに反対である。 [刑事裁判問題]

(1) 人を1人でも殺した者は、すべて死刑にすればよいではないか、とか、「連続強姦犯人」には法改正の上、死刑を科すべきだ、などと、安易に死刑を求める意見があるが、反対である。

 死刑判決を下すには、慎重の上にも慎重になされるべきことは、すでにhttp://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2009-06-07でも主張したとおりである。

(2) まず、人の命を殺めた者でなければ死刑判決は科されないのが刑法の大原則である。内乱罪、外患誘致(外国軍隊を日本に導き入れたもの)などという極限的犯罪を除いて、人の死という結果が生じていない場合には法定刑に死刑はない(例外が現住建造物放火であるが、放火だけで死刑判決が下されることはまず無い。)。

(3) それだけ、人の命は重い、ということである。人の命は、何物にも代え難い、とてつもなく大事なもので、その大事な大事な命を殺めた者には、死をもって償わせなければならない場合がある、というのが死刑判決である。

(4) あるいは、「目には目を」のハムラビ法典であれば、他人の目を潰した傷害犯人には、その目を潰す刑を科し、人を殺した犯人は、その命を奪うということで何の疑問も無いのであろうが、近代刑法の考え方は、犯罪が、犯人の責任だけで生じるものではないことなどを考慮し、どのような罪を科すことが、犯人と被害者と、社会のために一番よいかを考えて、科学的、合理的に決められなければならない、とされているものである。

(5) ところで、大事な大事な命を殺めることは、死刑も検討されるほどの重大犯罪なのであるが、その結果、死刑執行により失われるのも、大事な大事な命であることに変わりはない。

 よって、大事な大事な命を殺めたことへの罰として、大事な大事な命をもって償わせる、というのは、少なくとも1人の命を殺めたことを理由に、1人の命をもって償わせる、というのでは、犯人の命は、大事な大事な命ではないのか、という疑問が生じてしまう。

 あるいは、殺人犯人が人を殺すのは、「殺人犯人なんだから」と説明はついても、われわれ普通の人間が、皆で冷静に考えた結果、「人の命を抹消するということにおいては殺人と全く同じ」、「死刑判決とその執行」を、同じように行ってよいのか、という問題が生じる。

(6) そのようなことからも、現在の判例上は、原則的に1人を殺したのでは死刑にはならず、2人以上を殺した場合に、死刑判決が下される傾向があるようである。

(7) 結局、私たち社会の手で、自ら人の命を奪ってよいのか、という悩みと、「死刑をもって処断しなければ殺人事件が増えるのではないか」、という社会の不安感や、遺族への配慮から、ぎりぎりのせめぎ合いの結果、死刑判決の是非が考えられるべきで、決して安易に死刑判決を求めるようなことがあってはならないものである。

(8) 死刑廃止論については、理論的には正しいものとも考えるが、世論調査によれば、多くの国民が、死刑をもって処断すべき犯罪があると考え、死刑廃止に納得が得られない以上、当面、死刑の存置はやむを得ない、と考える。


死刑判決とその執行は、慎重の上にも慎重になされるべきである。 [刑事裁判問題]

(1) 足利事件で、間違ったDNA鑑定を元に無実の菅家利和氏を無期懲役刑に処してしまった。この事件は単なる殺人事件ではなく、より重い誘拐殺人事件であったことから、1人に対する殺人であるが、一つ間違えれば死刑判決で無実の菅家氏に死刑を執行していた可能性があるものである。

(2) 足利事件では、当時の最新の科学技術に基づいて下されたはずの殺人事件の有罪判決が、誤りであったことが今になって立証されたもので、和歌山カレー事件の死刑確定囚への死刑執行等でこの反省は生かされなければならないことは当然である。

 刑事裁判は、死刑判決に限らず、常に、無実の人間に間違って下されてしまうこともあるという、とてつもなく重大な危険性が潜んでいることを、裁判員制度も始まった今、国民すべて肝に銘じる必要がある。

(3) さらに、間違った死刑判決を無くす、という意味では、冤罪かどうかという問題だけではなく、無期懲役では駄目で、死刑でなければならない、という判断が間違っていないか、ということも、慎重に吟味されるべきである。

 1人を殺しただけで「死刑」でよかったのか、例えば、その後、時を経て、死刑自体が廃止されたような場合(欧米の多く国や州では死刑は廃止されている)や、そこまで行かなくても、2人以上殺さなければ死刑判決は回避すべき、という原則が確立されたような場合、かつて、1人を殺しただけで死刑判決を出し、死刑を執行したことの妥当性が再検討されることになる。

 しかし、その時点で再検討してももう遅いのであるが、そういう可能性まで吟味して、現在、死刑判決の是非が慎重に検討されるべきである。「法律や判例の推移の結果だから、過去は過去、現在は現在」として割り切ってしまうには、人の命というものは余りにも重いというべきである。

(4) 人の命を、国家の手で、つまり、我々国民すべての意思と実力の行使として、奪ってしまうには、絶対に間違っていない、という確信が必要であると考える。

 何年か後の国民が、「2009年の死刑判決は重すぎた、無期懲役でよかったのに」、ということでは、2009年の国民の正義が問われることになる。

 死刑判決とその執行は、慎重の上にも慎重になされるべきである。


検察審査会による起訴強制制度に反対である。 [刑事裁判問題]

(1) 検察審査会法が改正され、検察審査会の起訴相当意見に検察庁が応じなかった場合でも、再度、起訴相当意見を出した場合、弁護士が検察官役になって事件を起訴し、刑事裁判を進める制度が実施される。

 大阪弁護士会では、これまで刑事弁護を専門でやってきたような弁護士が検察官役を務める準備を進めていることなどが報道されている。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090530-00000614-san-soci

(2) しかし、検察審査会による起訴強制制度には反対である。

 人には、疑わしいというだけで罪に問われない権利がある。無罪かもしれない人を間違っても有罪にしない制度が無罪推定の原則であるが、この原則は、刑事裁判を経た結果、無罪になればよい、というものではない筈である。無辜の人間は、そもそも、社会的には大いに有罪が疑われ、「疑惑の立場」を強いられる刑事裁判の被告人とすること自体を、避けてあげるべきなのに、検察審査会による起訴強制制度は、そのことに反する不当なものだと考える。

(3) 言うまでもなく、検察庁は、日本最大の刑事裁判の専門家組織である。その検察庁が、検察審査会の「起訴相当」の意見を受けても、それでも起訴は不相当だとしているのである。そのような被疑者は「起訴が不相当である可能性」が極めて大きいことになる。それなのに、そのような人を敢えて起訴するべきではない。敢えて起訴し、やっぱり無罪だった、失敗だった、ということでは済まされないはずである。

 人は、刑事事件で起訴されるというだけで、判決のいかんにかかわらず、極めて重大な不利益を被る。無実の人には、いささかもそのようは不利益を与えないようにするのが国家の責務である。

 「起訴すべきでない人」である可能性が高いことが明らかになっているのに、無罪が確定した場合の、一定の取り返しのつかない不利益を被告人に押しつけて、とにかく裁判をやってみよう、などというのは、国家の国民保護義務に反する、余りにも無責任な態度というべきである。

(4) このことは、裁判員裁判制度において、たとえ裁判員6人全員が有罪だと判断しても、裁判官が一致して無罪だと判断した場合はいわば拒否権が与えられて有罪判決が下せないこととパラレルに考えられると思われる。

 素人の判断よりもプロの判断の方が正しいということはできないが、少なくとも、一定の確固たるプロの意見ある場合に、素人の意見だけで刑事裁判において人に不利益を与えることはできないはずである。

 あるいは、捜査は、第一検察庁と第二検察庁に平行して行わせる制度があったとしよう。両庁で起訴、不起訴の意見が分かれた場合、疑わしいから起訴させるのではなく、起訴不相当の有力意見がある、無罪の可能性が高いのに、敢えて人を被告人席に着けるのは不相当だから、起訴しない、という制度になるのだろう。それを、第一検察庁が起訴不相当だと判断したのに、第二検察庁どころか、素人の判断で起訴させるというのは不当だろう、ということである。

(5) 検察審査会による起訴強制制度には反対である。こんなものを推進している刑事弁護専門の弁護士の気がしれない。


改めて、裁判員制度に反対する。 [刑事裁判問題]

 本日から裁判員制度がスタートした。すでにこのブログでは、「裁判員制度は憲法違反であり、即刻廃止すべきである。」と論じているところであるが、 http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2008-11-24        改めて反対の意見を述べたい。

 今回は、以下の3つの点について論じる。

(1) 冤罪と、真犯人を無罪とする判決が増えることについて

 今日の朝日新聞の記事で、裁判員制度導入までの歴史として、免田事件ほか、3人の死刑冤罪事件の元被告の写真を掲載し、まるで、裁判員制度が冤罪をなくすためのものであるかような印象を与えているが、とんでもない不当な記事である。

 裁判員制度が、冤罪を増やし、真犯人を無罪とする事例を増やすものであることは明らかである。何としても裁判員の許容できる程度に短い裁判にすることが至上命題であるから、裁判員制度のもとではこれまでのような、真実発見のための十分な審理はできない。よって、まずは犯罪の立証ができず、真犯人について有罪とできない事案が増えることになる。また、もっとよく調べれば無罪となる証拠が出たはずなのに、不十分な審理で無辜の人に有罪判決を下してしまう冤罪も、当然増えるはずである。

(2) 国民の意思を無視して、国家に対する労働を国民に強制させることの重大性は「国民の司法参加」のメリットなど、吹き飛ばしてしまうものであることについて

(ア) 確かに、裁判員制度の導入により、国民に司法、刑事裁判について、他人事ではなく、自らのこととして真剣に考えさせるいい機会となることは事実であり、「司法の民主化」に寄与することは確かである。

(イ) しかし、国民の意思を無視して、国民が嫌がっていようがどうしようが、お上が決めたことに国民を従わせ、国民を、国家のために働かせるなどという、国家の暴挙を許容する悪例を作ったことの弊害の方が極めて重大で、そのような中で、ひとり、「司法の民主化が実現した」などと言ってみても、みせかけの、空疎な民主化でしかないことも明らかであろう。

(ウ) このような国家の暴挙に対して、マスコミや弁護士会等、本来、民主主義のためにそれを批判すべき民間の勢力が、こぞってこれを推進したことも、極めて由々しき事態である。

 「徴兵制導入の、いい予行演習となった。憲法改正も必要なさそうだ。マスコミも弁護士会もその他市民勢力も、むしろ賛同してくれることがわかったし。」という闇の声が聞こえるぞ、などとの批判も、あながち、大げさでないように思われる。

(3) 被害者にも被告人にも納得できない判決が出ることについて

(ア) 判決内容が被害者や被告人の希望どおりでなかった場合に、彼らは本当に納得するだろうか。おかしな人が裁判員に入っていたので、そのせいで間違った有罪(無罪)判決や、不当に重い(軽い)判決を下された。まともな人に裁いてもらっていれば、もっと違う判決だったかもしれないと思うのではないだろうか。

(イ) 今まではプロの裁判官が判例等に従って判決をくだすからやむを得ない、と考えられたところ、これからは一般市民が、判例等にとらわれずに判決を下すのである。当然、判決にブレが生じる。不利な方にぶれた当事者は、その判決に納得できるだろうか。

(ウ) 裁判員制度を導入するということは、市民に裁判を(一部)委ねるのだから、当然、そういうことを想定している。市民の裁判とはまさにそういうものであると考えるのである。

 これはまさに、王様が選ぶ立派な宰相がどんなにいい政治をするとしても、国民は、自ら選ぶおかしな首相の政治の方を選択する、ということとパラレルに考えられているもので、これは「民主主義のコスト」である。

(エ) 麻生首相がどんなにおかしなことを言っても、自分たちの選んだ首相だから仕方がない。そんなことなら王様に首相を選んでもらおう、などという国民はごくわずかであろう。

 しかし、裁判員制度は、国民自ら望んで導入されたものではない。国家が変な制度を押しつけてきて、変な判決まで多数生じるようになった。それを、国民が自ら裁判に参加しているのだから、若干のブレが生じても仕方がない、民主主義のコストだ、などといって正当化できるのは、ごく一部の、裁判員制度導入を、他の何にも代えがたい至上命題とする、おかしな法律家だけである。

(4) 以上のとおり、裁判員制度の不当な点は極めて重大である。こんな制度を、国民以外の官民、国を挙げて導入を進めているこの国のことが心配でならない。


危険運転致死傷罪の安易な認定を批判する。福岡3児死亡事故 [刑事裁判問題]

(1) 06年8月に3児が死亡した飲酒運転事故で、福岡高裁は、危険運転致死傷罪の適用を認め、懲役20年の判決を下した。http://search.yahoo.co.jp/search?p=%E5%8D%B1%E9%99%BA%E9%81%8B%E8%BB%A2%E8%87%B4%E6%AD%BB%E5%82%B7%E7%BD%AA&search.x=1&fr=top_ga1_lt62_sa&tid=top_ga1_lt62_sa&ei=UTF-8&aq=&oq=

(2) しかし、一審が同罪の適用を否定したように、同罪(刑法208条の2第1項)の構成要件は極めて曖昧で、安易な適用は罪刑法定主義に反するもので、憲法違反の疑いさえ生じるものである。

 つまり、刑法208条の2第1項は、「アルコール又は薬物の影響により正常な運転が困難な状態で、自動車を走行させ、よって人を負傷、死亡させた者は」とされているのであるが、「アルコールの影響により正常な運転が困難な状態」というのは一体、どういう状態を指すのか、全くもって不明確である。

 この判決は、「先行車を認識するために必要な目の機能にも影響が出る程度の危険な状態」だったとしたのであるが、「わき見」や「考え事」「注意散漫」でも追突は起こるのであり、それらの総合では危険運転致死傷罪は成立しないのだから、明確な決め手になっていないことは明らかである。

(3) 結局、一体、どの程度の状態になれば、ほかでもない「アルコールの影響」によって、まさに「正常な運転が困難な状態」になった、と言えるのか、決め手となるものは無いにもかかわらず、「行為の態様」から「正常な運転が困難だった」と認定しようとするから基準が曖昧になるのである。

 そこでこれまでの判決で、呼気アルコール濃度が0.3ミリ以上なら「正常な運転ができたはずがない」として危険運転致死傷罪の認定を認めてきたような、完全に科学的に「正常な運転が困難である」と断言できる明確な基準が必要なのである。

(4) 同罪のようなあいまいな構成要件の犯罪は、前記のような、控えめで確実な基準を定立して初めて「憲法違反の疑い」をクリアできるもので、福岡高裁のような認定基準では犯罪の成立基準を、刑法の法文ではなく、裁判官が決めることになるもので、罪刑法定主義に反する、憲法違反の恐れまで生じるものである。

(5) 産経新聞の5月15日の夕刊の見出しにはこの判決について「飲酒運転厳罰化の流れに沿う」として評価していたが、ある構成要件の犯罪を、量刑上厳罰化するのと、犯罪の認定自体をゆるやかに認めてしまうのとは、意味が全く違うことに気が付いてほしい。

 この判決及びそれへの社会の評価は、結果の重大性にとらわれて刑事裁判の厳格性をないがしろにするもので極めて遺憾である。

(6) たまたま生じた不幸な事件につき、原則を曲げてでも「犯人」を重く罰して、それでよしとするのではなく、二度と不幸な事件が起きないように、そもそもの原因である、飲酒運転を追放するための、さらなる「飲酒運転厳罰化」を、冷静に検討すべきであると考える。

 特に飲酒運転については、事故ではなく、交通違反の段階で厳罰を科すべきだと考えるものである。http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2008-10-23


痴漢無罪の最高裁判決を全面的に支持する。 [刑事裁判問題]

 4月14日、最高裁が、電車内で女子高生に痴漢をしたとして強制わいせつ罪に問われた被告人の事件で無罪判決を出した。実にまっとうな判断だと思う。全面的に支持したい。

 そもそも被害者と被告人の言い分が真っ向から対立している場合、被害者の供述が一貫していて信用に値する、などという理由で有罪とされること自体、非常に危険なことである。民事訴訟ならどちらかを勝たせなければならないから、そのような認定もやむを得ないところであるが、被害者が、嘘や思いこみ等から、一貫して一見合理的な供述をしただけでも有罪になるとすれば、冤罪の発生を防げないのは明らかだと思われる。それによって被告人の人生は壊滅的ダメージを受けることも考えれば、有罪認定には、慎重にも慎重を期した姿勢が必要である。

 被告人の供述に不自然さが無い場合、被害者の供述が一貫していて信用に値する、といった程度では、それは双方の言い分が対立していて、本来、どちらとも判断が付かないということなのだから、そのような理由で有罪判決は下せないはずである。

 被害者の供述以外に、より積極的に有罪を認定できる材料が無ければ、有罪判決は下すべきではない。裁判員制度の実施も目前に迫っている中、この最高裁判決は、市民の有罪判断の指標ともなるもので、実に有意義なものである。全面的に支持したい。 

最高裁判決・主文と理由

http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/20090414170745.pdf


裁判員制度は憲法違反であり、即刻廃止すべきである。 [刑事裁判問題]

(1) 裁判員制度が、いよいよ来年5月から実施されようとしている。しかし、徴兵制のない日本で、罪のない国民に強制労働させる裁判員制度は、国家による最大の人権侵害である。国民には、国家から強制されて労働する義務はないし、自己の見解を他者に表明する義務もない。裁判員制度は、憲法の根拠もなく、国民に労働や思想開陳を強制するもので、明らかに憲法違反である。

 それを違憲でない、とするには、万人が納得する立法事実(どうしても立法を必要とする事実)が必要であるが、世論調査によると、国民の多くが裁判員になりたくない、と考えている、つまり、国民の支持がないのであるから、そのことだけで、そのような立法事実がないことは明らかである。

(2) 憲法が定める国民の義務は、納税、勤労、教育の3つで、その他、行政手続等の必要性から国民の行為が必要な場合、最低限の行為義務が認められる場合もある。しかし、裁判員制度はそのいずれにも当たらないもので、また、身体の自由、思想不開陳の自由まで侵すもので、憲法違反であることは明らかだと思われる。
               
 アメリカ等で陪審員となることが義務づけられているのは、アメリカ国民にとっては、陪審裁判こそが裁判であることから、国民の陪審参加は、裁判制度存続に不可欠であって、裁判制度の維持には、強制労働も思想の開陳も、その限りにおいて国民の義務そのものとされているのである。しかし、日本において裁判員制度が、裁判に不可欠でないことは明らかであり、そのような事情は全く無いのである。

(3) 裁判制度について、直接民主制を選ぶか、間接民主制を選ぶかという、国民自らが選択すべき問題について、国民は現行の間接民主制的制度をよし、としているのに、嫌がる国民に無理矢理、直接民主制的制度を押しつけて国民に強制労働をさせる、などという制度を積極的に導入しようとしているもので、不当千万である。

 また、それによって刑事裁判が飛躍的によくなるとでも言うなら、まだ、正当性も認められようが、一般国民の参加により、精緻でない裁判が行われるようになることはそれ自体、明らかであるし、裁判員制度の導入がまず、目的としてあることから、「裁判員制度に合うように裁判を短くする」とか、余罪の多い被告人には、複数の裁判員体に分けて審理をさせて、特定の審理にしか関与していない裁判員体に全体の量刑を決めさせるなど、およそ、正しい刑事裁判という観点からかけ離れた制度が作り上げられようとしている。

(4) 日本のような、職業裁判官が裁く裁判が定着した社会において、裁判員制度の導入は無理だったのである。今からでも遅くない。憲法違反の裁判員制度は、即刻廃止すべきである。


事故ではなく、交通違反の段階で厳罰を [刑事裁判問題]

  10月21日の梅田ひき逃げ事件で、朝日新聞は、高山俊吉弁護士のコメントを掲載し、交通違反の厳罰化が問題であるかの記事を掲載していたが、私は、交通違反はもっと厳罰化すべきだと考える。
 車は、走る凶器の側面を有しているもので、誰にでも運転が許されてはならないものであって、安全運転を行うことを約束した、特別に許可を受けた者だけに運転が認められるのが本来である。
 ミスは誰にでもあるし、ついスピードを出してしまう、などということもあるから、人身事故やスピード違反を、余りに厳格に処分するのも問題であろう。しかし、暴走行為や飲酒運転は、法令をことさらに無視し、安全な交通システムを故意に破壊する行為であって、そんな者が公道を走ること自体、そもそも認められてはならないというべきである。
 前科のある者は弁護士資格を与えられないように、安全に関する規定に反するような者には、運転免許を与えない、などというのは当然のことだと思われる。そこで、たとえば、暴走行為で摘発された者は、10年間、免許を取り上げる。飲酒運転は1回で2年、2回目なら10年間、免許を取り上げる、などという制度を設け、交通の安全を脅かす者を運転交通社会から排除すべきだと考える。また、飲酒運転をしただけで懲役刑を科してもよい。
 たまたま飲酒運転で死亡事故という結果を招いた者は、懲役20年などと、突然、社会そのものから排除されるのに対して、飲酒運転という「行為」そのものは全く同じなのに、結果さえ発生しなければ反則金30万円ですんで、翌日からまた運転を始める、などというのは、事故の防止という観点からも、また罰則のバランスの観点からも軽すぎる、というべきである。
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