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豪雪の雪下ろし、都会の「働ける生活保護者」を派遣してはどうか。 [社会]

(1) 十数年ぶりの豪雪に高齢者ばかりの世帯など、雪下ろしもままならない状態で、このままでは家が倒壊する危険も出てきているとのことである。

 役場では雪下ろしの援助もしているが、そもそも村自体が高齢化しており、人手不足も深刻だということである。

(2) それならば、費用は都会の自治体持ちで、都会にいる、働けるのに仕事がなく、生活保護を受けて仕事もしていない、という人たちに、北陸、東北へ、雪下ろしに行ってもらってはどうだろうか。

 都会の市や区の臨時の職員として採用し、これから冬の2ヶ月、現地で雪下ろしに従事してもらい、給料として渡す(給料を生活保護費で割った月数よりも若干短い期間で再度、生活保護費支給を復活させる旨の約束をしておく)、ということでどうだろうか。

(3) 雪国のみなさんも、都会の役所も、生活保護受給者も、みな、役にも立って顔も立つ、いい案ではないだろうか。


君が代起立・斉唱違憲問題、斉唱を強いるのは憲法違反だとの田原反対意見に賛成である。 [社会]

(1)君が代起立・斉唱違憲問題で、先日来の最高裁第1小法廷、第2小法廷の判決に続いて、6月14日、第3小法廷も、東京都の処分を合憲とする判決を下した。

(2) しかし、その中で、田原睦夫裁判官が、起立命令は構わないが、「斉唱は、斉唱者が積極的に声に出して唱うものであるから、国歌に対して、否定的な歴史観や世界観を有する者にとっては、その歴史観、国家観と真っ向から対立する行為をなすことに他ならず、同人らにとっては、各地の公的式典への参加に伴う儀礼的行為と評価することができないものであると言わざるを得ない」などとして、斉唱命令が違憲だ、としていることに賛成である。

(3) 先日の、6月6日の第1小法廷の判決で反対意見を述べた宮川裁判官は、起立と斉唱に特に差違を設けず、座っていることで君が代起立・斉唱問題に積極的に意思表示する、というなら問題だが、思想、信条の自由から、消極的に座ったままでいる、ということなら処分に値しない、として反対意見を述べたものであるが、今回の田原反対意見は、単なる起立と、斉唱を峻別している。

(4) 田原反対意見は、平成19年2月27日の、いわゆるピアノ伴奏事件最高裁判決の合憲違憲との違いにも言及している。

 つまり、音楽教師が式典でピアノを弾いて国歌を歌うのは、音楽教師としての形式的職務であるから、それについての命令は問題が無いのに対して、その他の教員については、形式的職務は式典に出席して君が代起立・斉唱に際して起立するところまでであって、さらにその上に、音楽教師でもないのに、出席者として君が代を斉唱せよ、というのは、当該教員の思想信条に踏み込んだものとして、その意思に反した命令は憲法に反する、というものである。

(5) 田原反対意見は、起立について問題にしていない点で、宮川反対意見と異なるのであるが、単なる起立は、内心に影響する程度が小さいにもかかわらず、外観的に秩序を乱す点が大きいともいえるもので、起立と峻別して斉唱命令は違憲だとする田原反対意見がすっきりしているように思う。

 田原反対意見に賛成である。

 裁判官田原睦夫の反対意見の重要部分は,次のとおりである。

私は,多数意見が本件上告のうち,東京都人事委員会がした裁決の取消請求に関する部分を却下するとの点については異論はない。しかし,多数意見が,本件各職務命令は上告人らの思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びにその制約の態様等を総合的に較量すれば,その制約を許容し得る程度の必要性及び合理性が認められるとして,本件各職務命令は,上告人らの思想及び良心の自由を侵すものとして憲法19条に違反するとはいえないと解するのが相当であるとして,上告人らのその余の上告を棄却するとする
点については,以下に述べるとおり,賛成し難く,本件は更に審理を尽くさせるべく,原審に差し戻すのが相当であると考える。


第1 本件各職務命令と憲法19条との関係について
1 本件各職務命令の内容上告人らに対して各学校長からなされた本件各職務命令の内容は,入学式又は卒業式における国歌斉唱の際に「起立して斉唱すること」というものである(多数意見は,本件各職務命令の内容を「起立斉唱行為」を命ずる旨の職務命令として,起立行為と斉唱行為とを一括りにしているが,私は,次項以下に述べるとおり,本件各職務命令と憲法19条との関係を検討するに当たっては,「起立行為」と「斉唱行為」とを分けてそれぞれにつき検討すべきものと考えるので,多数意見のように本件各職務命令の内容を「起立斉唱行為」として一括りにして論ずるのは相当ではないと考える。)。なお,多数意見にても指摘されているとおり,本件町田市通達には「教職員は式典会場の指定された席で国旗に向かって起立し国歌を斉唱すること」も含まれていたが,X1に対する職務命令には,「国旗に向かって」の部分は含まれていない。


この「起立して斉唱すること」という本件各職務命令の内容をなす「起立行為」と「斉唱行為」とは,社会的事実としてはそれぞれ別個の行為であるが,原判決の認定した事実関係によれば,本件各職務命令は,それら二つの行為を一体として命じているように見える。


しかし,上記のとおり起立行為と斉唱行為とは別個の行為であって,国歌斉唱時に「起立すること」(以下「起立命令」という。)と「斉唱すること」(以下「斉唱命令」という。)の二つの職務命令が同時に発令されたものであると解することもできる。


そして,本件各職務命令に違反する行為としては,①起立も斉唱もしない行為,②起立はするが斉唱しない行為(これには,口を開けて唱っている恰好はするが,実際には唱わない行為も含まれる。),③起立はしないが斉唱する行為,がそれぞれあり得るところ,本件の各懲戒処分(以下「本件各懲戒処分」という。)では,
上告人らが本件各職務命令に反して国歌斉唱時に起立しなかった点のみが処分理由として取り上げられ,上告人らが国歌を斉唱したか否かという点は,記録によっても,本件各懲戒処分手続の過程において,事実認定もなされていないのである。


そこで以下では,本件各職務命令を「起立命令」部分と「斉唱命令」部分とに分けて,その憲法19条との関係について検討するとともに,本件各職務命令における両命令の関係について見てみることとする。

2 起立命令について
私は,多数意見が述べるとおり,公立中学校における儀式的行事である卒業式等の式典における,国歌斉唱の際の教職員等の起立行為は,一般的,客観的に見て,これらの式典における慣例上の儀礼的な所作としての性質を有するものというべきであって,上告人らの主張する歴史観ないし世界観を否定することと不可分に結び付くものではなく,したがって,上告人らに対して,学校の卒業式等の式典における国歌斉唱の際に起立を求めることを内容とする職務命令を発することは,直ちに上告人らの歴史観ないし世界観を否定するものではないと考える。


また,「起立命令」に限っていえば,多数意見が述べるとおり,上告人らの思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面はあるものの,職務命令の目的及び内容並びにその制約の態様等を総合的に較量すれば,なお,若干の疑念は存するものの,その制約を許容し得る程度の必要性及び合理性を有することを肯認できると考える。

しかし,後に検討する本件各職務命令における起立命令と斉唱命令との関係からすれば,本件各職務命令の内容をなす起立命令の点のみを捉えて,その憲法19条との関係を論議することは相当ではなく,本件各職務命令の他の内容をなす斉唱命令との関係を踏まえて論ずべきものと考える。

3 斉唱命令について
(1) 斉唱命令と内心の核心的部分に対する侵害
国歌斉唱は,今日,各種の公的式典の際に広く行われており,かかる式典の参加者が国歌斉唱をなすこと自体が,斉唱者の思想,信条の告白という意義まで有するものでないことは,前項で述べた起立の場合と同様である。また,多数意見が指摘するように,本件各職務命令当時,公立中学校の卒業式等の式典において国歌斉唱が広く行われていたことが認められる。

しかし,「斉唱」は,斉唱者が積極的に声を出して「唱う」ものであるから,国歌に対して否定的な歴史観や世界観を有する者にとっては,その歴史観,世界観と真っ向から対立する行為をなすことに他ならず,同人らにとっては,各種の公的式典への参加に伴う儀礼的行為と評価することができないものであるといわざるを得ない。


また,音楽専科以外の教諭である上告人らにおいて,学校の卒業式等の式典における国歌斉唱時に「斉唱」することは,その職務上当然に期待されている行為であると解することもできないものである。なお,多数意見の指摘するとおり,学習指導要領では,「入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚す
るとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする」と定めているが,その故をもって,音楽専科以外の教諭である上告人らにおいて,入学式や卒業式における国歌斉唱時に,自ら国歌を「唱う」こと迄が職務上求められているということはできない。


以上の点よりすれば,国歌に対して否定的な歴史観や世界観を有する者に対し,国歌を「唱う」ことを職務命令をもって強制することは,それらの者の思想,信条に係る内心の核心的部分を侵害するものであると評価され得るということができる。


(2) 斉唱命令と内心の核心的部分の外縁との関係
憲法19条が保障する思想及び良心の自由には,内心の核心的部分を形成する思想や信条に反する行為を強制されない自由が含まれることは当然である。


また,それには,自らの思想,信条に反する行為を他者に求めることを強制されない自由も含まれると解すべきものと思われる。そして,その延長として,第三者が他者に対して,その思想,信条に反する行為を強制的に求めることは許されるべきではなく,その求めている行為が自らの思想,信条と一致するか否かにかかわら
ず,その強制的行為に加担する行為(加担すると外部から捉えられる行為を含む。)はしないとする強い考え,あるいは信条を有することがあり得る。


上記のような強い考え,あるいは信条は,憲法19条が保障する思想,信条に係る内心の核心的部分そのものを形成するものではないが,その外縁を形成するものとして位置付けることができるのであり,かかる強い考え,あるいは信条を抱く者における,その確信の内容を含む,上記外縁におけるその位置付けの如何によって
は,憲法19条の保障の範囲に含まれることもあり得るということができると考える(最高裁平成16年(行ツ)第328号同19年2月27日第三小法廷判決・民集61巻1号291頁(以下「ピアノ伴奏事件判決」という。)における藤田宙靖裁判官の反対意見参照)。


ところで本件では,「斉唱命令」と憲法19条との関係が問われているのであり,(1)で論じたとおり,「斉唱命令」は上告人らの内心の核心的部分を侵害するものと評価し得るものと考えるが,仮に,本件各職務命令の対象者が,国歌については価値中立的な見解を有していても,国歌の法的評価を巡り学説や世論が対立している下で(国旗及び国歌に関する法律の制定過程における国会での議論の際の関係大臣等の答弁等から明らかなとおり,同法は慣習であるものを法文化したものにすぎず,また,同法の制定によって,国旗国歌を強制するものではないとされている。),公的機関が一定の価値観を強制することは許されないとの信条を有してい
る場合には,かかる信条も思想及び良心の自由の外縁を成すものとして憲法19条の保障の範囲に含まれ得ると考える。


4 本件各職務命令と起立命令,斉唱命令との関係
1に述べたとおり,本件各職務命令は,「起立命令」と「斉唱命令」の二つの職務命令が同時に発令され,本件各懲戒処分では,「斉唱命令」違反の点は一切問われていないことからして,そのうちの「起立命令」違反のみを捉えてなされたものと解し得る余地が一応存する。

しかし,原判決が認定する本件各職務命令が発令されるに至った経緯からすると,本件各職務命令は「起立して斉唱すること」を不可分一体の行為と捉えて発せられたものであることがうかがわれ,また,上告人らもそのようなものとして捉えていたものと推認される。


そして,上告人らにとっては,2,3において検討したとおり,上告人らの思想,信条に係る内心の核心的部分との関係においては,「起立命令」と「斉唱命令」とは明らかに異なった位置を占めると解されるところ,本件各職務命令が,上記のとおり「起立して斉唱すること」を不可分一体のものとして発せられたものであると上告人らが解しているときに,その命令を受けた上告人らとしては,「斉唱
命令」に服することによる上告人らの信条に係る内心の核心的部分に対する侵害を回避すべく,その職務命令の一部を構成する起立を命ずる部分についても従わなかったと解し得る余地がある(本件では,上告人らが,国歌を「斉唱」する行為につき如何なる考えを抱いていたか,国歌斉唱の際の起立行為と斉唱行為との関係をどのように関係付けていたかについて,原審までに審理が尽くされていない。)。

また,仮に本件各職務命令が「起立命令」と「斉唱命令」の二つの職務命令を合体して発令されたものであり,二つの職務命令を別々に評価することが論理的に可能であるとしても,本件各職務命令が発令された経緯からして,上告人らが本件各職務命令が「起立して斉唱すること」を不可分一体のものとして命じたものと捉えたとしても無理からぬものがあり,本件上告人らとの関係において,本件各職務命令違反の有無の検討に当たって,本件各職務命令を「起立命令」と「斉唱命令」とに分けることは相当ではないといわなければならない。

5 小括
以上検討したとおり,本件各職務命令は,「起立して斉唱すること」を一体不可分のものとして発せられたものと解されるところ,上告人らの主張する歴史観ないし世界観に基づく信条との関係においては,本件各職務命令のうち「起立」を求める部分については,その職務命令の合理性を肯認することができるが,「斉唱」を求める部分については上告人らの信条に係る内心の核心的部分を侵害し,あるいは,内心の核心的部分に近接する外縁部分を侵害する可能性が存するものであるといわざるを得ない。


本件において,上告人らが本件各職務命令にかかわらず,入学式又は卒業式の国歌斉唱の際に起立しないという行為(不作為)を行った理由が,国歌斉唱行為により上告人らの信条に係る内心の核心的部分(あるいは,内心の核心的部分に近接する外縁部分)に対する侵害を回避する趣旨でなされたものであるとするならば,かかる行為(不作為)の,憲法19条により保障される思想及び良心の自由を守るための行為としての相当性の有無が問われることとなる。


しかし,原審までの審理においては,「起立命令」,「斉唱命令」と上告人らの主張する信条との関係につきそれぞれを分けて検討することはなく,殊に「斉唱命令」と上告人らの信条との関係について殆ど審理されていないのであり,また,本件各職務命令と「起立命令」,「斉唱命令」との関係や,「斉唱命令」に従わないこと(不作為)と「起立命令」との関係,更には,上告人らの主張する信条に係る内心の核心的部分(あるいはその外縁部分)の侵害を回避するための行為として,上告人らとして如何なる行為(不作為)をなすことが許されるのかについての審理は,全くなされていないといわざるを得ない。


大相撲八百長問題処理、相撲協会自身が八百長の存在を認めることから始めよ。 [社会]

(1) 大相撲八百長問題は、放駒理事長が、過去には全く無かったと言明し、今回の調査に名前の出た力士は、携帯電話は捨てた、などと言って調査が進まないなど、今後の見通しが全く立たない状態に陥っている。

 しかし、相撲協会は、理事長自ら、過去には全く無かった、と言っているのだから、今回、名前が出た力士にだけ、八百長を告白せよ、というのも筋が通らない話である。

(2) 八百長問題は、平成3年に当時の二子山理事長が、力士、親方を集めて、無気力相撲、八百長について、「そんな相撲を取っていて恥ずかしくないのか、そんなことをしていると文部省に知れたら、国技館が没収されるぞ、相撲が取れなくなる、明日から自分たちの生活の糧が無くなるんだぞ」、と言って諫めていたが、まさに、その時に改めなかった結果、今となって現実のものとなろうとしているのである。

(3) 大相撲における八百長は、過去に、白鵬の親方である宮城野親方が、白鵬と朝青龍の八百長について愛人に説明したテープが流出したように、あるいは、過去に多くの証言者がいたように、一部では存在したことは明らかというべきであろう。

 それを隠していたのでは、今後の対応もできるはずがない、というべきである。

(4) 相撲協会は、まずは八百長の存在を自ら認めて、重い処罰を科さないことを約束して力士と親方に自主申告を求め、八百長の実態を世間に明らかにした上で、これまでは因習としてあったのだから、として過去の八百長は軽い処分にとどめ、今後は、八百長があれば永久追放、八百長情報に接して協会に報告しなかっただけで2場所出場停止等の厳罰に処する等、八百長追放宣言を行って、再出発すべきだと考える。

 相撲協会自体が過去を隠したままで、再出発などできるはずがない。まずは協会自ら、八百長の存在を認めることから始めなければ、この問題は、相撲協会が解散するまで終わらない、それほど自体は深刻だ、ということを理解すべきである。


大相撲八百長問題、NHKや新聞の相撲記者、前から知っていたのに、今になって無責任な記事を書くな。 [社会]

(1) 大相撲の八百長が社会問題化し、世間を揺るがせている。3月場所と、年内の地方巡業の中止が決まり、5月場所以降の開催も危ぶまれるなど、大相撲はまさに存亡の危機に立たされている。

(2) しかし、2月6日のテレビ朝日系、サンデーフロントラインでの玉木正之氏の発言や、石原東京都知事の発言からも、大相撲を近くで取材するNHKの記者や新聞記者らにとっては、大相撲で八百長があるのは半ば常識で、みな、見て見ぬふりをしていたようである。

(3) 記者らは、これまで大相撲の「八百長」を、知っていながら何の追及もせず、敢えて言えば国民を相撲界と一緒に騙してきた。また、相撲協会が週刊現代の「八百長記事」を事実無根だとして訴えた際にも、それが相撲協会による「不当訴訟」だと知りながら、記者らは知らぬふりを続けたことになる。

(4) 記者らの責任としては、初めて知った多くの国民と一緒になって、相撲協会を非難、糾弾し続けるのではなく、前から大相撲の八百長は自分たちには常識だった、それも含めて相撲文化だったということを国民に説明し、相撲協会が今後は改める、ということなら、八百長に関与した力士等も出場停止2場所くらいで許してやって、大相撲の再出発を応援しよう、などと、意見を言うべきだと考える。


大学生の就職協定、4年生の夏以降にできないか。 [社会]

(1) 大学生の就職説明会が、3年生の12月以降に規制されるとのことであるが、現在は10月頃からだから、たった2ヶ月遅くしただけだということになる。

 しかし、かつて、4年生の10月1日をもって就職活動解禁日、などとしていたことからして、早すぎる。今のままでは大学生は3年生の後半から4年生にかけて、ほとんど大学で勉強する時間がない。これでは大学教育自体が破壊される。

(2) もともと、企業は大学教育に期待していないようである。特に文科系の場合、大学は学生が企業に入社したあと、企業活動に役立つような教育をしていない。そこで、企業としても学生に求めているのは、高校時代、どの程度しっかり勉強し、優秀とされる大学に合格できたか、ということである。

 勉強する能力の優秀さは出身大学の偏差値でかなり判り、その中から各企業で必要な能力を各企業なりに計るのである。大学で法律や経済をどの程度身につけたか、ということはほとんど企業にとって関係がない。

(3) だからといって、大学でまじめに勉強している学生も多く、そのことで社会に貢献することも多い。大学教育が崩壊すると、企業への就職を考えない学生の研究にも悪影響を与える。

(4) 特に今は、企業にとって新卒者の採用は買い手市場で、他社に先駆けて一日も早く人材を確保しなければならないような事情もないはずである。

 ここは、大学教育と研究の崩壊を防ぐために協力し、経済界は、せめて、4年生の夏以降に就職活動を制限すべく、協定を作るべきだと考える。


マイケル・サンデル教授の「5人の命を救うために1人を犠牲にするのは正しいか」という命題を考える。 [社会]

(1) ハーバード大学教授のマイケル・サンデルの著書「これからの『正義』の話をしよう」が話題になっている。日経新聞は、10月19日の夕刊7面の「プロムナード」(哲学者・森岡正博氏)、また21日の朝刊1面、「民主主義を考える」5人のための1人、で続けて取り上げている。http://www.nikkei.com/news/topic/article/g=96958A9C93819481E3E5E2E2938DE3E5E3E2E0E2E3E2819A93E2E2E2;q=9694E3E3E3E2E0E2E3E2E2E0E6E1;p=9694E3E3E3E2E0E2E3E2E2E0E6E2;n=9694E3E3E3E2E0E2E3E2E2E0E3E4;o=9694E3E3E3E2E0E2E3E2E2E0E3E5

 線路の上を無人の列車が暴走している。線路の先には5人の人間が縛り付けられている。このまま何もしなければ5人は列車に轢かれて死んでしまう。暴走列車の進路には1本の待機線が接続されていて、別の1人が縛り続けられている。「線路の切り替えスイッチを握っているあなたは、どうするか」というのである。

(2) 耳を両手でふさぎ、目をつぶってしまうと、みすみす5人が死んでしまう。スイッチを押すと1人の命を自分で奪ったと、罪の意識に苛まれるだろうが、何もしないと5人の命を自分で奪ったという、それ以上の罪の意識に苛まれることになる。

 どちらにしても心に大きな傷を負うことになるが、やむを得ないので、5人を助けて1人を殺すことになるだろう。

 これは、住宅密集地にミサイルを撃ち込もうとしているのを妨害し、少しでも郊外へ落とそうと努力するようなことを考えれば、抵抗なく実行できるのではないだろうか。

(3) 森岡氏は、サンデル教授はスタジオインタビューで、「広島・長崎で何十万人の命が奪われたのは事実だが、もし原爆投下がなければさらに数多くの日本人や米国人の命が奪われていただろうということも考えなくてはならない」と言ったそうである。

 前記の理屈で、原爆投下を正当化できるのだろうか。すでに生じた攻撃を、最小の結果にとどめる、その過程で別の被害者が生じる、ということなら正当化できても、自らの手で初めから、何十万人もの人を殺す、などという行動を起こすことが正当化許されるのだろうか。

(4) 喧嘩が、互いに正当防衛の連続とはなりえないように、戦争だから、互いに人殺しや破壊という、最低、最悪の行為が続いているだけのもので、何十万人もの人を殺すことが正当化できるはずがない。

 戦争はすべて悪の連続である。ただし、特定の個人の責任に帰するべきではない。人々をして、戦争に至らしめた歴史や社会を、人類全体の反省の対象として考えていくべきものである。

 暴走列車の線路切り替えのスイッチを押すのと、原爆投下は、全く異なるものである。


この際、高齢者と子どもを1人残らず所在調査すべきだ。 [社会]

(1) 110歳などという高齢者が、実は亡くなっていた、あるいは所在不明だった、などということが全国で続出している。

 全国に100歳以上の人が何万人もいるそうだが、そのうち、所在がはっきりしない人も半分程度いるとのことである。

(2) 年金をもらっている人が亡くなると家族として年金がもらえなくなるため、亡くなったことを伏せておこうなどということも普通に考えられることである。あるいは、こっそり殺されていても判らない、ということにもなる。

(3) そこで、各自治体では、高齢者から順に、年金受領の年齢まで、1人残らず所在を確認すべきである。近所の人に聞いても姿を見たこと無い、などという高齢者について、家族が面談を拒否したら、警察が立ち入り調査をしてでも、所在を確認すべきである。

 また、子どもたちについても、未就学者については母子手帳を示させることで所在と身の安全を行政が確認すべきである。

(4) 行政には、住民ひとりひとりの生活について、健全になされているか、確認する責任があるというべきである。これまで放置されてきたことがおかしかったのである。110歳以上の人全員、などと言わず、高齢者と子どもは、1人残らず調査すべきである。


死刑自体は否定しないのだから、中国での日本人の死刑執行に抗議はできない。 [社会]

(1) 中国で麻薬密輸罪で死刑が確定していた日本人合計4名が、次々と死刑を執行された。

(2) 千葉法相は、「中国の刑罰法規は日本と異なるだけに、日本人は違和感や反発を感じているのではないか」と話し、毎日新聞の4月9日の夕刊の見出しも、「対中感情に影響も」として、死刑判決を批判している。

(3) しかし、死刑そのものを否定する立場ならともかく、日本における死刑を肯定する立場からすれば、特に問題は無いはずである。各国の刑罰法令により、死刑となる罪が違ってくるのは当然だからである。

 日本でも麻薬密輸罪は重罪であり、裁判員制度の対象罪でもある。しかも、暴力団がらみの、人の体を犠牲にして闇の世界で儲けようとする卑劣な犯罪である。その犯罪について死刑をもって処断する国があっても、日本人の倫理感、正義感として受け入れがたい、ということでは無いと思われる。

 中国では麻薬撲滅を極めて重要な課題と考えており、麻薬が場合によっては人の命にかかわる問題を引き起こすことを重視しているとのことである。

(4) 日本人と日本政府は、この問題について、世界には刑罰についての多くの価値観があることを理解し、冷静に対応すべきだと考える。


君が代は、小学校では教えようがないだろう。 [社会]

(1) 橋下大阪府知事が、4月1日の職員の任命式で、君が代斉唱を職員に求め、声が小さいと叱り、訓示のなかで、「うちの子供が国歌を歌えなくてびっくりした。みなさんは公務員になって憲法を順守すると誓った。国家のもとで仕事をするのだから、国家国民を意識しないといけない。これからはことあるごとに国歌斉唱をしていきます」と訴えた。とのことである。

(2) しかし、そもそも小学校で君が代を、どうやって教えているのだろうか。小学生に君が代の歌詞を、「天皇制が未来永劫続きますように」という歌が日本の国歌、国民がみんなで心を一つにする、国の象徴としての歌だ、と教えるのは憲法の精神に反するではないか。

(3) 天皇制という、本来、民主制と相容れない制度も、国民の総意に基づく、国民がそれを支持している、ということでかろうじて正当化できるものである。それを、国民みんなで、未来永劫続くように、希望しよう、というのは将来、国民の総意が無くなる可能性があるのに、天皇制を廃することにないように、とするもので、不当な歌詞だ、ということになる。

(4) 君が代などというものは、歌詞の意味がよく分からない、呪文のようなものとしてのみ正当性が認められるというべきである。だから、小学校では教えようがない。


死ぬ権利を、法律的にも倫理的にも認めるべきである。 [社会]

(1) 瀕死の重病人で、意識が回復する可能性のない人についてでも、人工呼吸器をはずすと殺人罪に問われることがある。

 日本では法律的にも倫理的にも、1日でも1瞬でも長く生命を維持することに至上の価値を見いだし、生命を少しでも短くすることを許さないかのようである。

 しかし、それは間違っているのではないだろうか。  

(一) 人工呼吸器による延命拒否の場合

 一昔前なら確実に絶たれていた命を現在の医療技術は機械によって極めて人工的、技巧的に、極端に言うと、脳死にならない限り、心臓だけ動かして何ヶ月も命を長らえさせることができるようになっている。

 現在の進歩した医療技術のお陰で、その後健康が回復するというならともかく、命を長らえさせるだけの結果しかもたらさないのに、「その技術を使って必ずできる限り生き続けよ」、という法律や倫理には無理があるのではなかろうか。医療技術が、かつての常識を超えて進化したことに鑑み、生と死についての法律や倫理が変更されてしかるべきだと考える。

 そこで、意識も無いのに人工呼吸器のような機械を用いて命を長らえさせていて、今後の大幅な回復の見込みが無い場合は、それを用いないで死ぬ権利が、法律的も倫理的にもあるというべきではないだろうか。

 なお、その権利が具体的に行使される、つまり、安楽死等の措置がなされる際には本人や家族の、真摯な、あるいは事前の明確な意思確認が必要であることはもちろんである。

(二) 回復の見込みの無い高齢者の場合

 また、前記ほどには至らなくても、たとえばガン等の結果、ベッドを離れられるまでに回復する見込みは極めて小さいのに、連日、痛みや苦痛に耐えるだけの日々を過ごすことを人に強いるのは、まさに、その意によらざる苦役を人に与えるもので、本来、許されないのではないだろうか。

 そこで、一定以上の高齢で、ガン等で回復の見込みが極めて小さい場合に、病気による苦痛が甚だしい場合は、死ぬ権利が、法律的にも倫理的にも、認められるべきではないだろうか。

(三) 生きるための価値観の尊重

(ア) 音楽家の加藤和彦氏が2009年に自殺した。遺書等から推測するに、「もう十分生きた。この後の人生に自分自身として、生きる価値を見いだせない」ということであったように思われる。

 彼が本当にそのように思っていたかどうかは別として、そのような理由で死ぬ権利が、法律的も倫理的にもあるというべきではないだろうか。

(イ) 新井将敬衆院議員が、収賄罪で逮捕されそうになった時、自らその命を絶った。彼にとってみれば、一定の志をもって政治家として努力してきたのに、逮捕、起訴されて、それ以降、志とは全く異なる人生を歩むことになり、その後の生きる価値を見いだすことができなかったのであろう。

 人間は、生きること自体に極めて大きな価値があるのは当然として、これ以上は生きたくない、という事態が生じた場合、例えば、「このまま生き恥をさらせ、というのは何よりも耐え難い屈辱である」、などという意思は尊重されるべきではないだろうか。

(ウ) 前記のような例においても、一定の生死についての価値観に基づいて、もう死にたいという人に対して、その考えは不当で、生きるべきだ、死んではいけない、という一般的価値観を押しつけるのは、本来、許されないのではないだろうか。

(2) これらに対して、特に(三)については、今後、生き続ければ新たな価値を見いだすことができる可能性も高いのだから、その時点で死ぬのはもったいない、ということで、軽率に自殺しないように勧められるべきは当然である。しかし、「死ぬべきではない」と決めつけるのは、不当な価値観の押し付けではないか、というのが本稿の趣旨である。

(3) 生きるか死ぬか、ということは、自己決定権の最たるものである。裕福で何不自由ない暮らしをなげうって、アフガンへ行ってボランティアをして命を危険にさらすのも自由だし、違法なことをしない限り、どんな生活をするのも自由だ、ということになっている。その前提として、死なない限り、何をしてもいいが、死ぬのはいけない、という絶対的倫理、法理はどこから導かれるのだろうか。

 もちろん、言うまでもなく死ぬと人間で無くなるもので、人間社会の倫理として、死んではいけない、ということは条理、不変の定理、ということかもしれない。しかし、逆にそれならば、それこそを不条理だと考え、不条理な人間社会からの解放を求めることこそが至上の権利、価値、至高の自由だ、との主張に対して、永久に交わらない価値観の相違であって、論理的に誤りであると言えるものでないことになってしまう。

(4) あるいは、未成年者の場合に十分な、あるいは的確な自己決定能力が身についてない、という理由で、そのような死ぬ権利を認めないのはもちろんであろう。

 また、うつ病等による死にたい、という願望は前記のものと峻別されるべきであるし、その他、一時的な思い込み等で軽々に自殺に走ることを防止すべきは当然である。

 しかし、たとえば、若くて美しい私以外は、生きる意味がない。30歳になって若さを失いつつある現在、美しくない自分をこの世に存在させたくない、という理由での自殺は、今後、生きていればそれに代わる生きる価値観が見つかる可能性が高いのだから、死を思いとどまってほしい、との説得が十分になされたあとでなお、そのように考える者については、その死ぬ権利を、法律的にも倫理的にも認めよ、ということになると考える。

(5) なお、本稿による理論は、理論的には正しくても、それを倫理的、法律的に認めることによって、本来、思いとどまっていた不当な自殺の発生を助長する結果になるであろうことは容易に推測できることから、政策的には、「自殺容認」の制度を作ることなどとんでもない、という意見は正しいと認めなければならないであろう。

(6) しかし、そのことと、理論的には、本来、自殺は倫理的、法律的に認められるべきもので、政策的に、不当な自殺を助長しないためにそれが認められないだけだ、と理解することが重要である、ということを何ら否定することにはならないと考えるものである。