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マイケル・サンデル教授の「5人の命を救うために1人を犠牲にするのは正しいか」という命題を考える。 [社会]

(1) ハーバード大学教授のマイケル・サンデルの著書「これからの『正義』の話をしよう」が話題になっている。日経新聞は、10月19日の夕刊7面の「プロムナード」(哲学者・森岡正博氏)、また21日の朝刊1面、「民主主義を考える」5人のための1人、で続けて取り上げている。http://www.nikkei.com/news/topic/article/g=96958A9C93819481E3E5E2E2938DE3E5E3E2E0E2E3E2819A93E2E2E2;q=9694E3E3E3E2E0E2E3E2E2E0E6E1;p=9694E3E3E3E2E0E2E3E2E2E0E6E2;n=9694E3E3E3E2E0E2E3E2E2E0E3E4;o=9694E3E3E3E2E0E2E3E2E2E0E3E5

 線路の上を無人の列車が暴走している。線路の先には5人の人間が縛り付けられている。このまま何もしなければ5人は列車に轢かれて死んでしまう。暴走列車の進路には1本の待機線が接続されていて、別の1人が縛り続けられている。「線路の切り替えスイッチを握っているあなたは、どうするか」というのである。

(2) 耳を両手でふさぎ、目をつぶってしまうと、みすみす5人が死んでしまう。スイッチを押すと1人の命を自分で奪ったと、罪の意識に苛まれるだろうが、何もしないと5人の命を自分で奪ったという、それ以上の罪の意識に苛まれることになる。

 どちらにしても心に大きな傷を負うことになるが、やむを得ないので、5人を助けて1人を殺すことになるだろう。

 これは、住宅密集地にミサイルを撃ち込もうとしているのを妨害し、少しでも郊外へ落とそうと努力するようなことを考えれば、抵抗なく実行できるのではないだろうか。

(3) 森岡氏は、サンデル教授はスタジオインタビューで、「広島・長崎で何十万人の命が奪われたのは事実だが、もし原爆投下がなければさらに数多くの日本人や米国人の命が奪われていただろうということも考えなくてはならない」と言ったそうである。

 前記の理屈で、原爆投下を正当化できるのだろうか。すでに生じた攻撃を、最小の結果にとどめる、その過程で別の被害者が生じる、ということなら正当化できても、自らの手で初めから、何十万人もの人を殺す、などという行動を起こすことが正当化許されるのだろうか。

(4) 喧嘩が、互いに正当防衛の連続とはなりえないように、戦争だから、互いに人殺しや破壊という、最低、最悪の行為が続いているだけのもので、何十万人もの人を殺すことが正当化できるはずがない。

 戦争はすべて悪の連続である。ただし、特定の個人の責任に帰するべきではない。人々をして、戦争に至らしめた歴史や社会を、人類全体の反省の対象として考えていくべきものである。

 暴走列車の線路切り替えのスイッチを押すのと、原爆投下は、全く異なるものである。


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