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国の学力テストの市町村別開示は不当である。 [社会]

(1) 今でも各地の自治体で、国の「学力テスト」の結果開示を求める動きが続いている。知る権利や、競争意識を持つことはよいことだ、などという理由で、大阪府の橋下知事をはじめとして各地の首長が自ら開示するとともに、住民の請求等により開示がなされることも多い。

(2) しかし、もともと「学力テスト」は都道府県別の結果は公表するものの、それ以上の、市町村等の結果は公表しないものとして行われている。

(3) 都道府県は小中学校の管理、監督の単位ではないが、市町村はその単位である。つまり、市町村別の成績を発表するということは、平均点の低い市町村の教育委員会はその責任を問われたりすることになる。もちろんその逆に、平均点の高い市町村では、教育の質そのものが高いという評価を受けることになるであろう。

 今後、学校別の成績を発表せよ、というようなことになると、まさに平均点の低い学校は責任を問われ、平均点だけで学校そのものの価値が測られることになりかねないものである。

(4) しかし、平均点の善し悪しだけがその地域や学校の教育の善し悪しでないことは言うまでもない。たとえば、「落ちこぼれ」を作らないことで成果を上げているような学校は、全体としての平均点は若干低いのかもしれないが、その学校の「教育」についての価値と無関係なことは明らかである。その他、個性的な教育を行い、個性的な卒業生を輩出しているような学校に対して、教育委員会が「それよりも平均点を上げるように」との有形無形の圧力をかけるようなことにもなるように考えられる。

(5) あるいは、国語や算数の平均点を上げることなど、ある意味、簡単なことだと思われる。たとえば、毎日放課後に希望者だけを対象に「学力テスト」対策の補習を30分するだけでよい。平均点が上がりそうもない底辺の生徒は参加しないから「邪魔」にならないし、これ以上点数は上がらない「優等生」は塾へ行って参加しないから、中間層を対象とした効果の高い補習ができると思われる。

(6) しかし、そういう目的で「学力テスト」が行われているものでないことは明らかであろう。全体としての学力の傾向を知り、国全体の教育の方針を立てるためのもので、「学力テスト」対策の教育を行うことなど、本末転倒も甚だしいものである。

(7) 「学力テスト」の市町村別開示は不当であるところ、今回の、市町村別の成績開示の要求が強かったことからしても、全国統一の「学力テスト」は弊害が強すぎるもので、今後はサンプル調査にとどめるべきだと考える。


「今年の漢字」は「民」。 [社会]

(1) 日本漢字能力検定協会が選定し、毎年、年末に清水寺の森清範貫主に揮毫してもらうことで有名な「今年の漢字」であるが、「今年の漢字」は「民」だと思う。

 もちろん、民主党の民、民衆の民、民主主義の民、民意の民である。

(2) もう少し経つと、民主党政権も失敗を重ねて批判の声が大きくなって、今さら「民」でもないだろう、ということにもなりそうなので、今のうちに表明しておく。

 また、理事長、副理事長が逮捕され、なにかと味噌を付けた漢検協会の「今年の漢字」であるが、同じく、なにかと味噌を付けつつある民主党政権と共通するものとしての皮肉を込めた意味も出てくるかもしれない。

(3) ちなみに、08年は変、07年は偽、 06年は命、05年は愛、04年は災、03年は虎、02年は帰、01年は末、00年は金である。http://www.kanken.or.jp/kanji/kanji2008/kanji.html#linkd

(4) よくも、悪くも、「今年の漢字」は「民」。しかし、政治的にいうならば、来年も、いや来年こそ「民」ということであってほしいものである。


脳死を人の死とすることに反対である。 [社会]

(1) 7月13日、国会で、脳死を人の死とする臓器移植法改正案がいわゆるA案のまま成立し、日本でも脳死を人の死とすることになった。

(2) 今国会での臓器移植法案の成立には反対である旨を表明してきたがhttp://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2009-06-19、法案の成立を受けて、あらためて脳死を人の死とすることに反対である旨を表明する。

(3) 人間は脳が「死に」、一定の活動その他ができなくなることがある。そのことをもって人の死とすることに決めたのが今回の改正である。

(4) しかし、脳死状態でも人間は成長する。子供は背が伸びる。親の中には、子が脳死になったからといって、その死を認めることはできない者がいることは明らかである。法律は親のそのような自然な感情を無視し、そのような親に「あなた子は死んだ」と勝手に決めつけるのであるが、そんなことは許されないと考える。

 また、脳死状態でも胎児は成長する。10ヶ月後、命を世に生み出す母胎を、死体ということができないのは明らかだと考える。あるいは、その子は、死体から生まれた、死者から生まれた子ということになるのだろうか。そのような扱いが不当なことは明らかである。

(4) 脳死でも人は成長するし、子供まで産める。そんな存在を「死体」とすることができないのは明らかである。

 脳死を人の死とすることに反対である。


消費者庁・消費者委員長には住田裕子弁護士ではなく、消費者問題の専門家を。 [社会]

(1) 政府は、ことし9月にも発足する消費者庁の初代の長官に、前の内閣府事務次官の内田俊一氏を起用する方針を固め、「消費者委員会」の委員長には、弁護士の住田裕子氏を起用する方向で調整を進めていることが、6月27日に明らかになった。

(2) 製品による事故などの原因究明や再発防止策の検討を一元的に行う「消費者庁」は、ことし9月にも発足することになっており、政府は、そのトップとなる長官の人事の調整を進めていたが、これまでの調整の結果、前の内閣府事務次官の内田俊一氏を起用する方針を固めたとのことである。

 内田氏は旧建設省に入り、内閣総務官や内閣広報官などを務め、平成18年に内閣府の事務次官に就任し、去年まで務めた中央官僚である。

(3) 消費者庁と言えども政府の役所なので、省庁間調整の必要から、長官には行政の大物を充てた方がその活動がスムーズに進む、という面もあろう。

 しかし、「消費者委員会」の委員長は、民間の消費者問題の専門家、例えば日弁連の消費者問題対策委員会の委員長経験者等に任せるべきである。

 これに対して、弁護士の住田氏といえば、元検事で、テレビ等で活躍するタレント弁護士であって、決して消費者問題に詳しい弁護士ではない。

(4) 民主党はもともと消費者庁の設立には反対で、消費者権利院を作り、内閣の外から行政に意見を言う組織を提案してきた。

 要するに「消費者保護の魂」が行政に注入されればよいのであって、行政庁を一つ「消費者保護」のために作っても「消費者保護の魂」が無ければ現状の消費者利益軽視の行政は変わらないし、消費者庁など無くても、たとえば「消費者保護の魂」を持った経済産業大臣や厚生労働大臣なら、立派に消費者保護行政は遂行できるということであろう。

(5) 「消費者委員会」委員長に、消費者問題に素人の住田氏を起用する、などということでは、「消費者庁作って魂入れず」といった事態になりかねないもので、住田氏ではなく、消費者保護問題に長年取り組んできた弁護士等を据えるべきだと考える。


近畿大学のボクシング部廃部は、教育機関としてあるまじき措置である。 [社会]

(1) 近畿大学ボクシング部暴行事件で大学側が、ボクシング部を廃部とする旨、6月18日に発表したが、企業なら、不祥事を起こした部署そのものを廃止してしまう、といったこともよくあることであるが、生身の、罪のない学生が多数在籍するボクシング部を廃部にしてしまうなどとは、教育機関としてあるまじき行動だと考える。

  この問題について、塩谷文科相は「そこまでしなくても」と語ったとのことである。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090619-00000526-san-soci

(2) これまで大学の運動部員の犯罪等では、国士舘大学の剣道部で、練習中に先輩のしごきで後輩を死なせたことで部が解散になった例があるが(その後復活)、これは部の活動自体から生じたもので、いわば部の活動の性格そのものが問われたもので、一度、解散させて体質改善を図る必要があったともいえるものである。

(3) しかし、今回の近大の事件については、当該の2人以外の部員は、本来、何の関係もないはずである。指導者に監督責任が問われ、他の部員にも連帯責任を課せられることがあるとしても、「廃部」というのではその後反省し、再出発することもできないもので、不当に重い措置である。

(4) 一定の犯罪を犯した者については、教育の限界を超えているとして、退学処分になることも多々あろう。しかし、他の部員については、そんなことは絶対にない。一定期間の活動自粛で反省させ、その後は、むしろ被害者として「それまで以上に頑張っていこう」という教育、配慮がなされるべきものと思われる。

(5) ところが本件では、2人以外の部員にとって、大学でのボクシングの活動の途を絶たれてしまい、今後の反省と再出発の手段も与えられないもので、およそ教育の名に値しない不当な措置だと考える。

 あるいは、ボクシング部の廃部に、近畿大学の体面を守る以上の、教育や学生たちにとっての、何か効果があるというのだろうか。

(6) まさに近畿大学は、企業の論理で、特に罪が重いわけでは無い特定の者を切り捨てることで世間の対面を保ち、組織を守ろうとしただけものである。

 近畿大学は、切り捨てられた学生についてどう対応するつもりなのか。近畿大学のこの措置は、教育機関としてあるまじき措置だと考える。


臓器移植法改正案は廃案にして国民的議論の高まりを待て。 [社会]

(1) 6月18日、衆議院は臓器移植法改正問題で、いわゆるA案・脳死を人の死とする法案を可決した。

 今後は参議院で法案の成立ないしは修正が図られることになるが、日本人の生と死のはざまを規定するこの問題につき、国民的議論が高まる前に、一番過激な案、つまり、これまで心停止をもって人の死としていたところを、脳死をもって人の死とすることに変える法律を作ることには賛成できない。

(2) この法案は、重要法案としては極めて珍しく、ほとんどの党派が党議拘束をはずし、議員の自由な投票に委ねたことでも注目されているが、その結果、自民、民主、公明の、3大政党の党首がみな反対したA案が可決されてしまった。

 麻生氏、鳩山氏、太田氏ともに反対したように、まさに国民世論は人の死の基準を根本的に変えることで一致しているわけではないし、政治的に高度な判断としても、脳死を人の死とすべき政治状況、社会状況にあったわけではない。

(3) 各党とも、人の生死にかかわる、死生観の問題であるとして党議拘束を行わなかったのであるが、では、各議員の死生観にこの法案、日本における生と死の基準の決定を委ねてよいのか、国民の意思はどう忖度されたのか、ということになる。

 結局、脳死と人の死、また臓器移植の問題につき、これまで真剣に考えてきたことが無い議員がほとんどであろう中で、各議員個人に決定が委ねられて世論がないがしろにされているもので、遺憾と言わざるを得ない。

(4) もちろん、法律は、国民の意思を尊重しつつも、代議制のもとで国会が、一番正しいと判断したところに従って決まるものである。

 よって、各政党が、国民の意思も尊重しつつ、その責任において成立させた法律は、民主主義体制のもので適正に作られた、というべきである。

(5) しかし、今回の臓器移植法案は、各政党とも、何が正しいか、結論を出すことができなかったのである。通常の法案は、各政党にそれぞれ専門家といってよいエキスパートがおり、彼らが中心になって議論を進め、その中で世論や、各種の政治的要素を加味して法案への賛否や修正意見を党の機関として決めていく。

 今回は、そのシステムが機能しなかった、意思を決められなかったのであるが、ではもっと議論しよう、とか、世論調査の結果に委ねようとか、あるいは、各議員が地元へ帰って国民の意見を聞いてこよう、ということになってもよかった筈である。

(6) それに対して、各議員にとって、ほぼ初めての経験である、各種団体によるロビー活動の中で、各議員一人一人が、ほとんど予備知識の無い中でこの議案についての賛否を決める、ということが立法過程として適切だとは、とても考えられないところである。

(7) 今回、衆議院での「脳死を人の死と認める法案」の可決を経て、初めて、国民のこの問題についての理解と意識が高まった。各政党とも、この問題について、今後の世論の動向を注視し、また、各議員も地元やその他で国民の生の意見に接し、その上で、次の国会で、改めて議論すべきである。

 今国会での臓器移植法案の成立には反対である。


京都教育大学は、学生の良識と言論を封殺するな。集団準強姦事件 [社会]

(1) 6月12日の読売新聞によると、京都教育大学の学生6人が集団準強姦容疑で逮捕された事件で、同大学は11日、「4年生の男子学生が、インターネットで事件に関する不適切な書き込みをした。」として厳重注意したことを明らかにした旨が報道されている。

 そもそも6人の学生は容疑を否認しているようであり、冤罪を主張している学生を犯人だと決めつけた対応には、この大学は憲法を知らないのか、と言わざるを得ないところであるが、まあ、その点は置くとして、「男子学生」に対する大学の対応は極めて不当である。

(2) 問題の書き込みは、「6人はまじめな学生だった」との内容だったとのことである。それなのに、大学側はこの書き込みについて、「6人を擁護していると取られかねず、誤解を招く記述だ」と判断し、男子学生を厳重注意の上、反省させた、とのことである。

(3) しかし、そもそも「6人」を擁護する書き込みをして何が悪いのか。たとえば、「被害者の落ち度が大きい、6人の罪は小さい」という主張も一つの見識である。裁判員裁判の評議の対象になったとして、6人のうち誰からも出ないような意見だ、というものでは決してない。

 それを、同じ大学の学生だからといって発言の自粛を強いられる筋合いは全くないし、「6人」に対する世間の圧倒的な非難の嵐の中で「6人」を擁護する書き込みを行うことは、むしろ極めて勇気ある民主主義的な行動だと考える。

(4) いわんや、学生の書き込みの内容は、「6人はまじめな学生だった」というものであり、報道だけから、極悪人そのものだとの印象を持っている世間に対して、報道上の虚像ではなく、6人の真実を知る者として事実をありのままに公表したものであり、「犯罪報道の弊害」に対する一つのあるべき対応策として、むしろ奨励されるべき、適切な行動だと考える。

(5) これに対して、大学側の考えは、「6人が極悪人であると決めつけた世間に逆らうな」「大学を上げて謹慎している姿勢に水を差すな」ということであろうか。それこそ、この大学は教育界を中心に、一体、どんな学生を送り出しているのか心配になると言いたくなる。

(6) 京都教育大学は、最高学府として、世間におもねることなく学問の王道を歩むとともに、「将来の教育者」の教育者として、このような事件においても、世間の非難の嵐に、ただおたおたとうろたえているだけではなく、こんな時にこそ自ら率先し、いかなる時でも、何が真実で、正義がどこにあるかを冷静に考え、信念に基づいて行動できる教育者を、育てていってもらいたいものである。


政府(宮内庁)は陵墓の学術調査を制限するな。「卑弥呼」の箸墓 [社会]

(1) 邪馬台国・女王卑弥呼の墓説のある、奈良県桜井市の箸墓古墳の築造時期が、土器などの科学分析で、西暦240年から260年と推定されることが、国立歴史民俗博物館の調査で5月29日にわかった。それによって邪馬台国・大和説の有力な根拠となったが、まだまだ決め手にはならないとのことである。http://www.nikkei.co.jp/kansai/news/news000039.htmlw.nikkei.co.jp/kansai/news/news000039.html

(2) しかし、この土器というのは箸墓の外から見つかったもので、国立歴史民俗博物館といえども、箸墓の内部の発掘は、宮内庁が陵墓に指定していることから、いまだに認められていない。

 陵墓とは、古代からの天皇、皇后その他皇族の墓として宮内庁が指定し、天皇家の祖先の祭祀の対象であるとして、この、箸墓に限らず、立ち入りや発掘その他の科学的調査をも基本的に制限しているものである。

(3) しかし、邪馬台国が大和にあったのか、北九州にあったのか、などという日本歴史の極めて重要な疑問点を探る材料が目の前にありながら、皇族の祭司の対象であるという理由で、科学的に極めて重要な目的がありながら調査に入れない、などというのは明らかに不当である。

 1800年前の祖先の墓を祭司の対象として保護するはその他一般国民との比較で本来、不相当である。一般庶民の墓は、道が通るというだけで、親の墓でさえ移転させられるのに、皇族のみが1800年前の祖先の墓を国有財産として保護してもらえるのは不相当であり、国民が共有する文化財の保護という観点を入れなければおよそ説明のつかない措置である。

(4) 結局、政府としては、文化財として保存している天皇家の陵墓は、正当な科学目的による調査は、基本的にすべて認める。ただし、一般人の見学等は、そこが天皇家にとっては祖先の祭祀の対象であることを鑑みて原則として制限する、ということでなければならないはずである。

(5) 邪馬台国が大和にあったのか北九州かなどという、歴史についての極めて重大な疑問につき、宮内庁が陵墓の発掘を認めていないことから探求が進まない、などということは、決してあってはならないものである。

 政府・宮内庁は、速やかにすべての陵墓の、科学目的による発掘調査を認めるべきである。


新型インフルエンザ・学校の修学旅行自粛、旅行後の出校停止はどこまでが妥当か。 [社会]

(1) 北九州市が神戸市へ修学旅行に行った生徒を7日間出校停止にし、今後の神戸市への修学旅行を中止した件で、兵庫県知事が「行き過ぎ」だとし、風評被害に懸念を表明した。http://news.goo.ne.jp/article/jiji/nation/jiji-090517X940.html?fr=rk

(2) しかし、神戸市では、神戸高校と兵庫高校が対抗戦での接触をきっかけに両校で感染者が多数出たことから、両校のみならず、近隣の区のすべての県立の学校につき、1週間の休校をを決めているのである。

(3) そのことからすれば、地元の学校ですら生徒を自宅待機にしているのに、そのような地域にわざわざ修学旅行に行くのは不相当だと考えて、北九州市が、「神戸地区への修学旅行中止」措置を取ったことも妥当な措置だと考える。

 兵庫県知事が、北九州市の決定に不快感を表明し「ここに住む私たちは1週間、家にいないといけないのか。社会生活をするなということになる」としたことはおかしな感想で、全く賛同できない。

(4) 現在は、一般に、必要な社会生活を制限するほどのこともないが、ことさらに危険に接近する行動は取らない、というのが妥当な行動であろう。

 兵庫県知事を始めとする兵庫県民は、濃厚汚染が懸念される当該高校や周辺の生徒を除き、日常の生活を続けることが妥当であるとともに、北九州からわざわざ神戸市へ、この時期に修学旅行に来ることもない、として中止するのは、妥当な措置だと考える。

 但し、すでに神戸市への修学旅行から帰ってきた生徒を出校停止にするのは、これから危険に接近しに行くわけでもなく、本来必要な社会生活を過剰に根拠もなく制限するものであり、不相当だと考える。

(5) 新型インフルエンザは、その感染の危険性、感染した際の症状の重篤性等を科学的に正確に分析し、厚生労働省等による、学校閉鎖、出校停止、修学旅行の中止等についての、確たる指針の提示が、速やかになされることが必要だと考える。


新型インフルエンザに過剰反応は禁物だ。国内修学旅行中止は意味がない。 [社会]

(1) 新型インフルエンザの関連で、徳島県教育委員会が、国内修学旅行の中止を検討すべしとの通知を出したことから、徳島市の中学校が沖縄への修学旅行を中止したとのことである。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090513-00000005-ryu-oki

(2) しかし、こんな馬鹿なことはない。国内ならどの地域でも危険は同じだから、それを徹底するなら、人混みへ出るな、ということになるが、それは、都会の学校なら電車に乗るな、都心へ来るな、ということだし、田舎なら学校が、最大の人口密集地ということになり、自宅待機せよ、ということになる。

 また、教育委員会が統一的指針を出すのではなく、各学校に判断を任せる、というのも、極めて無責任な態度である。各学校としては最悪の事態を恐れて、それなら中止しよう、ということになってしまう。

(3) 一方、海外となると、どこで何が起こっているかわからないし、海外で発症した場合等、対処に窮する事態も考えられることから、海外への修学旅行の中止はやむを得ない選択だと思うが、国内なら、どこへ行っても危険は同じである。

(4) 今、求められているのは新型インフルエンザに対する合理的な対処である。各地方ごとで、不合理な対処がなされる可能性も高いので、まさに厚生労働省は、何が合理的な対処かにつき、国中に適切な情報提供と指導を行うべきである。

 新型インフルエンザに、意味の無い過剰反応は禁物である。合理的な措置を迅速に取っていかなければならない。