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死ぬ権利を、法律的にも倫理的にも認めるべきである。 [社会]

(1) 瀕死の重病人で、意識が回復する可能性のない人についてでも、人工呼吸器をはずすと殺人罪に問われることがある。

 日本では法律的にも倫理的にも、1日でも1瞬でも長く生命を維持することに至上の価値を見いだし、生命を少しでも短くすることを許さないかのようである。

 しかし、それは間違っているのではないだろうか。  

(一) 人工呼吸器による延命拒否の場合

 一昔前なら確実に絶たれていた命を現在の医療技術は機械によって極めて人工的、技巧的に、極端に言うと、脳死にならない限り、心臓だけ動かして何ヶ月も命を長らえさせることができるようになっている。

 現在の進歩した医療技術のお陰で、その後健康が回復するというならともかく、命を長らえさせるだけの結果しかもたらさないのに、「その技術を使って必ずできる限り生き続けよ」、という法律や倫理には無理があるのではなかろうか。医療技術が、かつての常識を超えて進化したことに鑑み、生と死についての法律や倫理が変更されてしかるべきだと考える。

 そこで、意識も無いのに人工呼吸器のような機械を用いて命を長らえさせていて、今後の大幅な回復の見込みが無い場合は、それを用いないで死ぬ権利が、法律的も倫理的にもあるというべきではないだろうか。

 なお、その権利が具体的に行使される、つまり、安楽死等の措置がなされる際には本人や家族の、真摯な、あるいは事前の明確な意思確認が必要であることはもちろんである。

(二) 回復の見込みの無い高齢者の場合

 また、前記ほどには至らなくても、たとえばガン等の結果、ベッドを離れられるまでに回復する見込みは極めて小さいのに、連日、痛みや苦痛に耐えるだけの日々を過ごすことを人に強いるのは、まさに、その意によらざる苦役を人に与えるもので、本来、許されないのではないだろうか。

 そこで、一定以上の高齢で、ガン等で回復の見込みが極めて小さい場合に、病気による苦痛が甚だしい場合は、死ぬ権利が、法律的にも倫理的にも、認められるべきではないだろうか。

(三) 生きるための価値観の尊重

(ア) 音楽家の加藤和彦氏が2009年に自殺した。遺書等から推測するに、「もう十分生きた。この後の人生に自分自身として、生きる価値を見いだせない」ということであったように思われる。

 彼が本当にそのように思っていたかどうかは別として、そのような理由で死ぬ権利が、法律的も倫理的にもあるというべきではないだろうか。

(イ) 新井将敬衆院議員が、収賄罪で逮捕されそうになった時、自らその命を絶った。彼にとってみれば、一定の志をもって政治家として努力してきたのに、逮捕、起訴されて、それ以降、志とは全く異なる人生を歩むことになり、その後の生きる価値を見いだすことができなかったのであろう。

 人間は、生きること自体に極めて大きな価値があるのは当然として、これ以上は生きたくない、という事態が生じた場合、例えば、「このまま生き恥をさらせ、というのは何よりも耐え難い屈辱である」、などという意思は尊重されるべきではないだろうか。

(ウ) 前記のような例においても、一定の生死についての価値観に基づいて、もう死にたいという人に対して、その考えは不当で、生きるべきだ、死んではいけない、という一般的価値観を押しつけるのは、本来、許されないのではないだろうか。

(2) これらに対して、特に(三)については、今後、生き続ければ新たな価値を見いだすことができる可能性も高いのだから、その時点で死ぬのはもったいない、ということで、軽率に自殺しないように勧められるべきは当然である。しかし、「死ぬべきではない」と決めつけるのは、不当な価値観の押し付けではないか、というのが本稿の趣旨である。

(3) 生きるか死ぬか、ということは、自己決定権の最たるものである。裕福で何不自由ない暮らしをなげうって、アフガンへ行ってボランティアをして命を危険にさらすのも自由だし、違法なことをしない限り、どんな生活をするのも自由だ、ということになっている。その前提として、死なない限り、何をしてもいいが、死ぬのはいけない、という絶対的倫理、法理はどこから導かれるのだろうか。

 もちろん、言うまでもなく死ぬと人間で無くなるもので、人間社会の倫理として、死んではいけない、ということは条理、不変の定理、ということかもしれない。しかし、逆にそれならば、それこそを不条理だと考え、不条理な人間社会からの解放を求めることこそが至上の権利、価値、至高の自由だ、との主張に対して、永久に交わらない価値観の相違であって、論理的に誤りであると言えるものでないことになってしまう。

(4) あるいは、未成年者の場合に十分な、あるいは的確な自己決定能力が身についてない、という理由で、そのような死ぬ権利を認めないのはもちろんであろう。

 また、うつ病等による死にたい、という願望は前記のものと峻別されるべきであるし、その他、一時的な思い込み等で軽々に自殺に走ることを防止すべきは当然である。

 しかし、たとえば、若くて美しい私以外は、生きる意味がない。30歳になって若さを失いつつある現在、美しくない自分をこの世に存在させたくない、という理由での自殺は、今後、生きていればそれに代わる生きる価値観が見つかる可能性が高いのだから、死を思いとどまってほしい、との説得が十分になされたあとでなお、そのように考える者については、その死ぬ権利を、法律的にも倫理的にも認めよ、ということになると考える。

(5) なお、本稿による理論は、理論的には正しくても、それを倫理的、法律的に認めることによって、本来、思いとどまっていた不当な自殺の発生を助長する結果になるであろうことは容易に推測できることから、政策的には、「自殺容認」の制度を作ることなどとんでもない、という意見は正しいと認めなければならないであろう。

(6) しかし、そのことと、理論的には、本来、自殺は倫理的、法律的に認められるべきもので、政策的に、不当な自殺を助長しないためにそれが認められないだけだ、と理解することが重要である、ということを何ら否定することにはならないと考えるものである。


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