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西村真吾議員の韓国人への「慰安婦」侮辱問題、維新の会は西村議員を比例名簿2位に据えた責任を取れ。 [戦後民主主義問題]

(1)、日本維新の会の国会議員、西村真吾氏が一連の慰安婦問題をめぐる橋下大阪市長の発言に関して、党の議員総会で「外国メディアでは、橋下氏の報道がねつ造され始めている。慰安婦が性奴隷と転換されている」と述べ、国際的な批判の広がりに対抗すべきとの趣旨の発言を行って一連の報道に対する的外れな反感を示した。

 そのうえで西村議員は、「日本には韓国人の売春婦がまだうようよいる。彼らに会ったら慰安婦と言ってやれ。」などと発言した。 

(2) 西村氏の「慰安婦と言ってやれ」発言は要するに、韓国民は日本軍の慰安婦にさせられたことを、民族の屈辱であるかのように言うが、今は韓国人が大量に日本に来て売春婦をしているではないか、彼らに会ったら「慰安婦」と叫んで侮辱してやろう、ということであろう。

(3) しかし、現在の韓国人の売春婦が西村議員の軽蔑の対象だとしても、彼らに浴びせる軽蔑の言葉が「慰安婦」とは何事だ。はからずも慰安婦にさせられた韓国の女性たちは極めて気の毒な境遇である。その女性たちに関して「慰安婦」を蔑称として使う、などというのは彼女たちに対する日本人としての謝罪の心などみじんもない、人の道に反するもので、決して許されないものである。

(4) 西村議員は、先の衆院選で、日本維新の会の、近畿ブロックの単独2位の候補者として当選している(1位は東国原氏である)。日本維新の会は、このような議員を公認したというだけではなく、何としても当選させるべく、他の議員よりも順位を上に、名簿の単独2位に据えたのであるが、西村議員はもともと弁護士法違反で逮捕、起訴された身であり、その他、多くの行動や発言が問題になった者である。

 日本維新の会は、そのような西村議員の今回の行動につき、どうしてこんな者を名簿の単独2位に据えるに至ったのか、誰が強く推したのか、その他、その経緯を明らかにし、党自身の責任を明らかにすべきであると考える。


橋下大阪市長は政治家失格、これ以上、従軍慰安婦問題等の発言で世界に恥をさらすな。 [戦後民主主義問題]

(1) 橋下大阪市長による、慰安婦問題、在沖縄米軍に買春を勧める等の発言が世界各国の批判を浴びているが、橋下市長の発言はツイッターを通じて止まらない。

(2) 橋下市長は、自分は、「僕は日本軍による従軍慰安婦制度は、必要だと思う」という趣旨の発言はしていない、などと反論し、英語の、necessaryという訳を変えてほしいなどと言っている。

 しかし、橋下市長は従軍慰安婦問題で、同時に、「在沖縄米軍兵士による強姦事件対策で、米軍も地元の「風俗」を利用してはどうか、と提言したら米軍司令官が凍り付いて何も言わなかった」旨の発言もしている。「風俗」の意味が、バーやナイトクラブの意味なら、米軍司令官が凍り付く必要はないもので、橋下市長が軍隊による市民への強姦被害防止のために、現代でも、軍による組織的買春を肯定的に捉えていることは明らかである。

(3) また、日本軍の従軍慰安婦についての行為は悪いことだった、しかし、アメリカ軍やドイツ、フランスが同様のことをしなかったのか、などとも言い出している。しかし、まさに今、問題になっているのは日本の有力政治家、野党第2党の党首で、日本第2の経済都市の市長が、従軍慰安婦、軍のための買春組織は必要だった、今でも公言して何の反省もせず、当時の被害者や、現在も買春・売春が軍の秩序維持に公然と使われているだろう実態に何の配慮もしない発言を世界に発信していることについてである。

 これから、それらに関する反論が世界中から押し寄せてくるであろう。

(4) これまで橋下市長は、大阪市役所の記者クラブをはじめ、日本のマスコミや世論を煙に巻き、暴論でも支持する一部市民や国民を扇動して支持を広げてきたようだが、今度は世界が相手である。

 世界を相手に自らツイッターで長々と反論していることで、世界から厳しく糾弾されると思われるが、しかしそれは、橋下市長だけの問題にとどまらず、日本の政治家全体が、あるいは、そういう政治家を送り出している日本人全体が、非難の対象になってしまうというべきである。

 橋下大阪市長は政治家失格である。これ以上恥を世界にさらし、日本人全体に損失を与え続ける前に、速やかに政治家を辞するべきである。


「天皇は神で、天皇のために死ねば君も靖国神社に神として祀られる。天皇陛下万歳と叫んで、喜んで死んでこい」、と言われて心ならずも戦陣に散った英霊たちを、靖国神社ではなく、故郷のお墓で安らかに眠らせてさしあげよう。 [戦後民主主義問題]

(1) 平成25年4月の春の大祭に、麻生副総理が参拝し、また多くの与党議員らが参拝したことについて、中国と韓国が批判したのに対して安倍首相は、「国のために死んだ人々を祀るのはその国の自由で、他国の脅かしに屈することはない」などと国会で答弁し、これに反論している。

 しかし、そもそも先の大戦で戦地に送られて戦死した英霊たちは、「天皇は神で、神国日本は絶対に戦争に負けず、天皇のために死んだら靖国神社で神になるのだから、喜んで死んでこい」と言われたが、天皇は神ではなく、日本も神国ではなくこの戦争はアジアの人々に多大な迷惑をかけた、ということについて、騙された、天皇と靖国神社に騙された、子孫たちは二度とそれらに騙されないでほしいと思っておられるに違いないと考える。

(2) 靖国神社にA級戦犯が祀られていようがいまいが、靖国神社とは、宗教により若者を、たとえ間違った戦争にでも平気で命を捧げさせる国民洗脳組織そのものであって、いつまた何時、同様の組織として時の政権が再び利用しないとも限らないものであり、戦後の新しい社会で性格を変えて、平和を祈念する施設に変容する、などということもあり得ないものである。

(3) とはいえ、最愛の肉親が戦死し、靖国神社に祀られている、と信じて靖国神社に参拝することは信教の自由であってそれを妨げるものでは決してない、というだけのものであり、大臣その他、政府の関係者が積極的に靖国神社に参拝する、などというのは、前記のとおり、英霊の意思にも反するもので、現代の政治家の行動として、間違っていると考える。

「国のために命をささげた方々に尊崇の念を表すことは当然」ではあるが、その場所は、決して靖国神社ではない。

 以下に、08年10月17日の、「靖国神社批判」の当ブログを再掲する。

http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2008-10-17-1

靖国神社は、神国日本、神たる天皇、国家神道を支えた中心施設で、明治政府が、若者を、国のために喜んで死ぬように宗教教育を行う上での中心施設であった。国のために死ぬことを無闇に否定する立場には立たないが、国のために死ぬことそのものの意義を教育するのではなく、宗教の力で、死を恐れなくさせて、国のために死なせる、などというのは、卑劣極まりないことであろう。しかも、元々国民に根付いた宗教ではなく、明治政府が国家体制確立のために、いわば特別に普及させた宗教であることからすればなおさらである。
 それらを前提に、靖国神社を信奉する人に、3つの疑問がある。
(1)憲法などを持ち出すまでもなく、宗教を、国防や国家施策の手段としてはいけないのではないか。アラーの神万歳と叫んでツインタワーに突っ込むことと、天皇陛下万歳と叫んで空母に零戦で突っ込むことと、その精神構造に共通点は多い。
(2)野中広務氏らの言うように、国のために死ねば靖国神社で神になるから喜んで死んでこい、というのは嘘で、だまされて死んでいった英霊たちは、靖国神社で当時の為政者を恨んでいるのではないか、という思いをどう思うか。
(3)今後も、戦死者の慰霊施設を、靖国神社のままとするのか、そうすると、自衛隊員に、国のために死ねば神になる、という宗教教育を行うのか。
 国のために死ねば神になる、などという、古来の宗教や人々の自然な思いとかけ離れた宗教教育は、近代国家において絶対に行ってはならないものであり、靖国神社は、まさに、本質的にその施策のための施設である。その意味で、近代国家における平和の施設になど変容しようのないものである。 
 人は死ぬと灰になるのである。悪いことをせずに死ねば天国へ行ける、などという自然的宗教とは別に、国家のために死ねば神になる、などと、とんでもない非科学的な教育を施してよいはずがない。
 それでも、息子が祀られている以上、どうしても参拝したい、という遺族の宗教心までは押さえられないとしても、靖国神社は、その意味でのみ、かろうじて存在が許される施設であって、それ以上の存在になってはならないものである。
 そのことは、A級戦犯の合祀とは特に関係の無いものであって、私は、野党指導者までが、A級戦犯が分祀されれば首相の靖国公式参拝を認めてよいかの発言をしているのが、全く信じられないものである。


自民党の憲法改正案、天皇の元首化、国旗国歌の尊重義務など、時代錯誤も甚だしい。 [戦後民主主義問題]

(1) 4月27日、自民党は憲法改正案を発表したが、時代錯誤も甚だしい。

 第一章、天皇の章の新設条文等は以下のとおりである。

1条 天皇は、日本国の元首であり、日本国および日本国民統合の象徴であって、その地位は、主権の存する日本国民の総意に基づく

 3条 国旗は日章旗とし、国歌は君が代とする

 2 日本国民は、国旗および国歌を尊重しなければならない

 4条 元号は、法律の定めるところにより、皇位の継承があったときに制定する

 6条 5 1項および2項に掲げるもののほか、天皇は、国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う

(2) しかし、このような憲法改正案を出す自民党の見識を疑う。自民党は民主主義政党ではなかったのか。

 本来、人は生まれながらに平等である。どうして天皇だけは別なのか。戦後、日本国憲法制定時は、大日本帝国憲法からの移行時で、一挙に天皇制を廃止するわけにもいかず、終戦の混乱を避ける目的もあって、過渡期としての象徴天皇制が定められた。しかし、国権に関する権能は一切持たず、まさに象徴的機能のみを持つ、ということで、その民主主義的正当性が認められるものである。

(3) ところが、自民党の改正案では、天皇を元首と位置づけている。元首とは国の代表者であり、国家権力の最高地位にある者である。自民党案で1条で天皇を元首とすれば、それ以降の条文は、天皇が元首として本来持つ権能を制限するに過ぎないことになる。

(4) また、国旗、国家を天皇の章に規定するというのは、まさに天皇の国である「日章旗」、天皇をたたえる「君が代」ということを正面から認めることになる。そして、3条2項で国民の国旗、国歌尊重義務を定めるなど、その非民主性は時代錯誤も甚だしいものである。

 現在でも、君が代、日の丸尊重義務は卒業式などでも、公務員たる教員には認められても、生徒や父兄、来賓に求めていない建前になっている。

(5) 国歌、国旗ないし国そのものについても、尊重するかしないかは国民の自由のはずである。具体的行為としての義務を果たせば、ことさらに無礼な態度を取って他者の気持ちを害する行為を禁止するようなこともあっても、敬意を抱いていないものに「尊重せよ」などと思想規制を行うなどと、思想良心の自由を侵すもので、決して許されないものである。

 自民党は一体、何を考えているのか、時代錯誤も甚だしいというべきである。


最終的に日本に侵略への道をひた走らせた国家神道と無関係な、戦没者慰霊施設を早急に作るべきだ。 [戦後民主主義問題]

靖国神社を信奉する人への、3つの疑問
 靖国神社は、神国日本、神たる天皇、国家神道を支えた中心施設で、明治政府が、若者を、国のために喜んで死ぬように宗教教育を行う上での中心施設であった。国のために死ぬことを無闇に否定する立場には立たないが、国のために死ぬことそのものの意義を教育するのではなく、宗教の力で、死を恐れなくさせて、国のために死なせる、などというのは、卑劣極まりないことであろう。しかも、元々国民に根付いた宗教ではなく、明治政府が国家体制確立のために、いわば特別に普及させた宗教であることからすればなおさらである。 それらを前提に、靖国神社を信奉する人に、3つの疑問がある。(1)憲法などを持ち出すまでもなく、宗教を、国防や国家施策の手段としてはいけないのではないか。アラーの神万歳と叫んでツインタワーに突っ込むことと、天皇陛下万歳と叫んで空母に零戦で突っ込むことと、どこが違うのか。(2)野中広務氏らの言うように、国のために死ねば靖国神社で神になるから喜んで死んでこい、というのは嘘で、だまされて死んでいった英霊たちは、靖国神社で当時の為政者を恨んでいるのではないか、という思いをどう思うか。(3)今後も、戦死者の慰霊施設を、靖国神社のままとするのか、そうすると、自衛隊員に、国のために死ねば神になる、という宗教教育を行うのか。 国のために死ねば神になる、などという、古来の宗教や人々の自然な思いとかけ離れた宗教教育は、近代国家において絶対に行ってはならないものであり、靖国神社は、まさに、本質的にその施策のための施設である。その意味で、近代国家における平和の施設になど変容しようのないものである。  人は死ぬと灰になるのである。悪いことをせずに死ねば天国へ行ける、などという自然的宗教とは別に、国家のために死ねば神になる、などと、とんでもない非科学的な教育を施してよいはずがない。 それでも、息子が祀られている以上、どうしても参拝したい、という遺族の宗教心までは押さえられないとしても、靖国神社は、その意味でのみ、かろうじて存在が許される施設であって、それ以上の存在になってはならないものである。 そのことは、A級戦犯の合祀とは特に関係の無いものであって、私は、野党指導者までが、A級戦犯が分祀されれば首相の靖国公式参拝を認めてよいかの発言をしているのが、全く信じられないものである。

(1) 今年も8月15日、終戦記念日を迎え、平和への誓いが日本各所で行われた。

(2) 靖国神社については、すでに08年10月17日の、上記ブログで書いたとおりだが、「神国日本の、神たる天皇の赤子である臣民が、天皇のために戦死すれば神として靖国神社に祀られる。よって、若者は喜んで天皇のために戦死せよ、母親は喜んで息子の命を天皇のために差し出せ」、という戦時下の国家主義統制、戦争遂行の国家体制の中で、靖国神社がその枢要、本質的役割を果たしたことは明らかである。

(3) その靖国神社が、新憲法下で、平和祈念、戦死者追悼目的だけの組織に衣替えした、などと言っても受け入れがたいものがある。あるいは、そう思って先祖のために参拝する人々の信仰の自由は認められるとしても、国全体としては、「靖国神社のために騙されて、夫は、罪の無いアジアの人を殺して、自分も殺されるという惨めな死をとげた」と思って靖国神社を批判している人の存在や、キリスト者等でおよそ靖国神社の思想を受け入れられない人の存在を無視できないことは明らかである。

(4) そこで、靖国神社に代わる、国全体で、また、首相も天皇も堂々と参れる、新しい、戦没者霊施設を作るべきである。戦死者と、その他戦没者を分け、戦死者のみを対象にすると、「戦死を厭わず、国のために命を捧げる若者を奨励するのか」との誤解を呼ぶ。およそ戦争は、兵士にとっても住民にとっても、絶対にあってはならないものであることを示すため、戦死者ではなく、戦没者全体を対象にすべきだと考える。

 また、毎年、終戦の日に日本武道館で行われる追悼式の式場のようなものを、常設、恒久施設化することをベースに検討することを提案する。


麻生首相の、終戦記念日靖国参拝見送りを支持する。 [戦後民主主義問題]

(1) 麻生首相が終戦記念日の靖国参拝を見送る旨を表明したが、8月12日の産経新聞の社説等、「中国に媚びた姿勢だ」などとして批判している。産経新聞社説は、首相が国民を代表し、国のために尊い命を捧げた人を慰霊するのは国家の指導者として当然である、としている。

(2) しかし、靖国神社は決して古来からの、ないしは国民の素朴は宗教心に基づく宗教施設ではない。

 靖国神社は、戦死した兵士等を国家が慰霊する極めて政治的、政策的な宗教施設であり、侵略戦争を遂行、助長した重要な国家組織であるとしてその存在を強く批判する国民層も多い中で、その宗教施設を首相が国家、国民を代表して参拝し、慰霊するなどというのは政教分離規定に反する憲法違反行為である。

(3) これは、死者なら大抵葬られる「墓」が、アーリントン墓地という場所に戦死者の分がまとめられていて、そこに米国大統領が参拝する、などということとは根本的に異なるものである。

(4) あるいは、それらの議論の何が正しいかは別として、戦争の犠牲となった方々を静かに慰霊する場所に、先鋭的な政治的対立と混乱を持ち込むことはふさわしくない、として終戦記念日の参拝を否定した麻生首相の考えは極めて妥当であると考える。

 麻生首相の、終戦記念日の靖国参拝見送り表明を支持する。


日本の侵略行為の正当化は許されない [戦後民主主義問題]

(1) 田母神空幕長が、日本の植民地支配を正当化し、侵略は濡れ衣などという論文を寄稿したとして、更迭された。
 右派言論人が時々する主張であるが、極めて不相当である。
 彼らの主張は、イギリスやアメリカその他欧米列強が、アフリカやアジアの国々を侵略し、奴隷を徴し、資源や財産を一方的に収奪したこと等に比べれば、日本がしたことは大したことではない、侵略国家というならもっといくらでもあるだろう、日本が侵略国家などと言われるのは濡れ衣だ、一方的に謝り過ぎだ、といったことのようである。

(2) しかし、日独伊以外のほとんどの国は、20世紀初頭頃までに過去の行為を反省し、自ら自国においても、また対外的施策においても、一応、民主的体制を確立したが、日独伊の3国は、そのような世界の流れに全く逆行し、最後まで、対外的侵略行為を繰り返した。そして結局、結果において、他国の手を借りて初めて自国の民主化を実現したのであるから、この3国は、戦後、自ら反省しなければ、反省する機会がないのである。あるいは、他国から無理矢理、現在の民主体制にさせられたのだとすれば、いつ何時、元に戻ってしまわないとも限らないのである。

(3) また、侵略などというと、豊臣秀吉の「朝鮮征伐」まで謝罪するのか、いつまで謝罪するのか、などという批判もあるが、現在は、侵略戦争の直後の時代であるということが「朝鮮征伐」とは全く異なっている。「朝鮮征伐」も太平洋戦争も、どちらも歴史的事実ではあるが、我々の時代の直前の時代は、歴史的事実であるとともに、その時代へ戻ってしまうのか、どう反省するか、我々の時代の責任が直接問われる対象なのである。

(4) 最後に、植民地時代、朝鮮や中国、あるいは東南アジアの地域が、日本の植民地政策の結果、現地の経済が発展し、各種のインフラ等が整備されたという点だが、それは、言うまでもなく、現地を非民主的に支配して日本の利益のために搾取しようとした結果、たまたま現地の利益にもなったということで、支配した側から恩着せがましく言える筋合いのものでないことは明らかであろう。

(5) 他の者ならともかく、もう一度、戦前の、侵略を許す非民主的体制に戻るとすれば、自衛隊の暴走が重要な役割を果たすのであろう。自衛隊員にも正しい歴史的認識を持ってもらわなければならないとともに、自衛隊幹部が、過去の侵略行為についての、独自の見解を社会に表明しようなどと考えること自体、シビリアンコントロールの原則を無視する、とんでもない不当な行為だということを、すべての自衛隊幹部が自覚すべきである。


靖国神社を信奉する人への、3つの疑問 [戦後民主主義問題]

 靖国神社は、神国日本、神たる天皇、国家神道を支えた中心施設で、明治政府が、若者を、国のために喜んで死ぬように宗教教育を行う上での中心施設であった。国のために死ぬことを無闇に否定する立場には立たないが、国のために死ぬことそのものの意義を教育するのではなく、宗教の力で、死を恐れなくさせて、国のために死なせる、などというのは、卑劣極まりないことであろう。しかも、元々国民に根付いた宗教ではなく、明治政府が国家体制確立のために、いわば特別に普及させた宗教であることからすればなおさらである。
 それらを前提に、靖国神社を信奉する人に、3つの疑問がある。
(1)憲法などを持ち出すまでもなく、宗教を、国防や国家施策の手段としてはいけないのではないか。アラーの神万歳と叫んでツインタワーに突っ込むことと、天皇陛下万歳と叫んで空母に零戦で突っ込むことと、その精神構造に共通点は多い。
(2)野中広務氏らの言うように、国のために死ねば靖国神社で神になるから喜んで死んでこい、というのは嘘で、だまされて死んでいった英霊たちは、靖国神社で当時の為政者を恨んでいるのではないか、という思いをどう思うか。
(3)今後も、戦死者の慰霊施設を、靖国神社のままとするのか、そうすると、自衛隊員に、国のために死ねば神になる、という宗教教育を行うのか。
 国のために死ねば神になる、などという、古来の宗教や人々の自然な思いとかけ離れた宗教教育は、近代国家において絶対に行ってはならないものであり、靖国神社は、まさに、本質的にその施策のための施設である。その意味で、近代国家における平和の施設になど変容しようのないものである。 
 人は死ぬと灰になるのである。悪いことをせずに死ねば天国へ行ける、などという自然的宗教とは別に、国家のために死ねば神になる、などと、とんでもない非科学的な教育を施してよいはずがない。
 それでも、息子が祀られている以上、どうしても参拝したい、という遺族の宗教心までは押さえられないとしても、靖国神社は、その意味でのみ、かろうじて存在が許される施設であって、それ以上の存在になってはならないものである。
 そのことは、A級戦犯の合祀とは特に関係の無いものであって、私は、野党指導者までが、A級戦犯が分祀されれば首相の靖国公式参拝を認めてよいかの発言をしているのが、全く信じられないものである。
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