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靖国神社を信奉する人への、3つの疑問 [戦後民主主義問題]

 靖国神社は、神国日本、神たる天皇、国家神道を支えた中心施設で、明治政府が、若者を、国のために喜んで死ぬように宗教教育を行う上での中心施設であった。国のために死ぬことを無闇に否定する立場には立たないが、国のために死ぬことそのものの意義を教育するのではなく、宗教の力で、死を恐れなくさせて、国のために死なせる、などというのは、卑劣極まりないことであろう。しかも、元々国民に根付いた宗教ではなく、明治政府が国家体制確立のために、いわば特別に普及させた宗教であることからすればなおさらである。
 それらを前提に、靖国神社を信奉する人に、3つの疑問がある。
(1)憲法などを持ち出すまでもなく、宗教を、国防や国家施策の手段としてはいけないのではないか。アラーの神万歳と叫んでツインタワーに突っ込むことと、天皇陛下万歳と叫んで空母に零戦で突っ込むことと、その精神構造に共通点は多い。
(2)野中広務氏らの言うように、国のために死ねば靖国神社で神になるから喜んで死んでこい、というのは嘘で、だまされて死んでいった英霊たちは、靖国神社で当時の為政者を恨んでいるのではないか、という思いをどう思うか。
(3)今後も、戦死者の慰霊施設を、靖国神社のままとするのか、そうすると、自衛隊員に、国のために死ねば神になる、という宗教教育を行うのか。
 国のために死ねば神になる、などという、古来の宗教や人々の自然な思いとかけ離れた宗教教育は、近代国家において絶対に行ってはならないものであり、靖国神社は、まさに、本質的にその施策のための施設である。その意味で、近代国家における平和の施設になど変容しようのないものである。 
 人は死ぬと灰になるのである。悪いことをせずに死ねば天国へ行ける、などという自然的宗教とは別に、国家のために死ねば神になる、などと、とんでもない非科学的な教育を施してよいはずがない。
 それでも、息子が祀られている以上、どうしても参拝したい、という遺族の宗教心までは押さえられないとしても、靖国神社は、その意味でのみ、かろうじて存在が許される施設であって、それ以上の存在になってはならないものである。
 そのことは、A級戦犯の合祀とは特に関係の無いものであって、私は、野党指導者までが、A級戦犯が分祀されれば首相の靖国公式参拝を認めてよいかの発言をしているのが、全く信じられないものである。
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