SSブログ

集団的自衛権は、自国防衛以外の交戦権を認めるもので、絶対に許してはならないものである。 [新安倍政権]

(1) 5月14日、安倍内閣は、集団的自衛権の行使を可能にする安全保障関連法案を閣議決定し、今国会での成立を目指すことを発表したが、絶対に反対である。

(2) 集団的自衛権とは、自国防衛、自国民防衛の手段としてではなく武力を行使する権利であり、集団的自衛権を認めるということは普通に、他国に対する武力行使を行うことを宣言することである。

(3) 現在の戦争放棄を定めた憲法9条のもとで、なぜ、自衛隊という戦力を保持できるのかというと、自国が侵略されて、自国民の生存が脅かされる場合に、何の対応もできないというのでは憲法が各種の国民の権利、生存権等を保障した意味がなくなるのであるから、憲法は、自衛のための最小限の戦力の保持を禁止しているはずがない、憲法9条は、それ以上の戦力の保持や、自衛権の行使としての戦争以外の戦争を禁止するだけのものである、という解釈からである。

(4) つまり、米軍が侵略された場合などに、日本及び日本国民が侵略されたわけではないのに、日本及び日本国民の生存権、生存とは無関係に、日本が武力を行使することを認めるのが集団的自衛権であるが、それは、前記(3)の解釈からして、憲法9条に違反することは明らかなのである。

 また、そのような武力の行使は、当然、交戦権の行使でもあるから、その意味でも憲法9条違反である。

(5) あるいは、米軍が侵略された場合を想定したが、今回の集団的自衛権が想定する事態として、たとえば、米軍が他国(A国)を侵略し、反撃を受けたその時点をとらえれば、米軍への武力行使であるから、日本は集団的自衛権を行使して、当該A国に対して武力行使を行うことが考えられる。つまり、集団的自衛権とは、米軍の侵略行為を、米国に加担して一緒に行う、ということも想定されるものである。

(6) また、日本が仮に、アメリカと日米安全保障条約を結んでいないならば、アメリカと相互防衛の、集団的自衛条約を結ぶことによって、日本の安全性は格段に強まるから、集団的自衛権を認める意味は大きいということになる。

 しかし、日米間には片面的防衛義務しかない日米安保がすでにあって、日本は、米国や米軍を守らなくても、米国から守ってもらえる地位にあるのだから(その代わり、米軍基地を日本領土に提供している)、集団的自衛権を認めることよって、日本の安全性は決して強まらない。

(7) それどころか、米国が侵略したA国から反撃を受けた米軍を守るために、日本がA国を攻撃し、A国から日本が反撃を受ける、などという状況も考えられることから、日本はより危険な状態に陥ることは明らかである。

 それを、「日本人の命と平和な暮らしをまもるためにあらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行うのが集団的自衛権の意味である」、などという政府の説明は、まやかし以外の何物でもない。

(8) 集団的自衛権を認めるということは、自国防衛以外に、日本が普通に武力行使を行い、他国から反撃されることにより、日本が、普通に戦争を行う、普通に戦争の惨禍を再び経験する国になる、ということであり、絶対に許してはならないものである。


日教組は国の補助金団体ではない。安倍首相は国会で無恥なヤジを飛ばすな。 [新安倍政権]

(1) 西川農相が補助金団体から献金を受けていた問題で2月23日に辞任した。政治資金規正法は、国の補助金交付が決まった企業から、その1年以内に寄付を受けてはならないと規定されているところ、その脱法だとして追及され、西川氏は不当なことはしていない、と反論しつつも、農相を辞任したものである。

(2) 2月19日、そのことを民主党議員が衆院予算委員会で追及している最中、こともあろうか安倍首相が民主党議員に対して、「日教組はやってるよ。日教組どうするの」「日教組、日教組」と何度もヤジを飛ばし、西川氏と同じ構図で日教組から献金を受けている民主党議員に西川氏を追及する資格はない、ということを言っていることについて民主党から抗議され、安倍首相が陳謝する、という騒動があった。

(3) しかし、そもそも日教組は国から補助金を受けてない。労働組合が国から補助金を受ける、などということがある筈がない。また、日本教育会館も議員献金など一切していない。よって、日教組と民主党議員の関係は、西川氏の、補助金団体からの実質的献金が不当か、という問題とは全く無関係である。

(4) まるで日教組が実質的な不当献金を行っているかの発言を、一国の首相が国会の場で、しかもヤジとして発言して問題になるとは言語道断、無恥をさらけ出し、品性のなさを露呈するもので、決してあってはならないものである。

 政治とカネの問題で辞任する大臣が、安倍内閣で多すぎる。安倍首相は「任命責任は私にある」というだけではなく、「政治家のカネの問題」を根絶すべく、抜本的改善策を国民に対して示さなければならないと考える。


安倍首相の、「撃ち方やめ記事は朝日の捏造発言」、朝日は首相の言論弾圧に抗議すべきだ。 [新安倍政権]

(1)安倍首相は10月31日、首相が「撃ち方やめになればいい」と発言したと朝日新聞や他の全国紙などが30日付朝刊で報じたことについて「私は『撃ち方やめ』とは言っていない。火がないところに火をおこしている。記事としては捏造だ、ということを国会で発言し、さらに、朝日新聞の報道について「自分が思う方向にもって行きたい、安倍政権を倒したいという方向にもっていくから、そういう間違いが起こる」と語ったとのことである。

(2) しかし、言うまでもなく首相は国の最高権力者であり、その者が、ある新聞について、記事が捏造であるなどと、その他、集中的に公然と批判する、などというのでは朝日新聞自体やその読者に影響を与え、政府への批判の矛先が鈍るのではないか、という懸念、不安感を国民に与えるもので、不当な言論弾圧である。

 朝日新聞だからこそ、そんなものに屈するはずがない、あるいは、言論で対抗できる面もあるだろう、などというのは全く別問題である。これが地方の弱小新聞であったらどうか、考えてみるべきである。

(3) 最高権力者たる者、一民間会社を不当に攻撃するようなことは許されない、特に相手が新聞社である以上、言論弾圧となり、決して許されないものである。

 朝日新聞は、首相の不当な言動に対して、社説で反論するだけでなく、言論機関として、首相の言論弾圧に対して正式に抗議すべきである。首相の言論弾圧を、これ以上許してはならない。そうでなければ将来に禍根を残すというべきである。


黒田日銀は、日本の国全部をかけてギャンブルを続けるような、金融緩和の拡大策はやめよ。 [新安倍政権]

(1) 日銀は10月31日、新たな追加的な量的金融緩和策をサプライズで決定したが、このところ勢いを失いつつあった景気回復や物価上昇の力を“再点火”する狙いがあるとのことで、また期を一にして公的年金投資対象の株式投資の割合を増やすなど、政府による、まさになりふり構わぬ景気浮揚策が取られ、株価は敏感に反応し、31日の日経平均株価は755円高のまさに暴騰状態であった。

(2) 今回の政策は、ETF(上場投資信託)の買い増しなど株価下支えに即効性がある政策を取るなど、一連の日銀黒田金融緩和政策は、当面の株価上昇には役立つし、また、それによって富裕層の消費拡大につながる等、当面の経済拡大に効果があることは確かである。

(3) しかし、この政策の効果は、現に1年も経てば効果が薄れ、いつまでも、また、次々と新たな拡大策をとり続けなければならないことが明白になっている。 

 アメリカはリーマンショック以降の緊急対策としての金融緩和策の終了を決定した。それに合わせて、アメリカよりもはるかに激しい金融緩和策を取り続けている日本が、さらに、激しい金融緩和策を、しかも、いつまででも、何度でも取る、ということを宣言するかの今回の発表で、10月31日の日本の株価はまさに暴騰するに至ったものである。

(4) しかし、日銀がどんなに金融緩和政策を続けても、結局、数ヶ月間、株価が上昇するだけで、実体経済に与える影響は制限的であることは明らかである。

 今回は、すぐに円安は112円まで大きく進み、円に対する信認の問題にもなってきている。日銀の市場介入が拡大することで、金融バブルや市場機能の阻害といった金融緩和が抱える副作用の懸念も一段と深まったものである。

(5) 目先の株価上昇を狙っての、追加の金融緩和策はもはや限界に来ているというべきである。毎回、毎回、超インフレ、超円安の懸念は増してきているというべきである。

 日銀は、日本の国全部をかけてギャンブルを続けるような、無定見な金融緩和策を、これ以上、続けるようなことがあってはならないと考える。


集団的自衛権が憲法上認められるなら、米国以外とも、軍事同盟が可能になる、ということである。 [新安倍政権]

(1) 安倍内閣は現在、憲法を改正することなく、現憲法下で、集団的自衛権の行使が可能となるような閣議決定を目指しているが、現憲法上、集団的自衛権が認められないことについてはすでに当ブログでも指摘しているところである。

http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2014-04-20

(2) しかし、集団的自衛権の典型的なものは、軍事同盟である。たとえば、日本がA国と軍事同盟を結び、互いに侵略されたら共同で防衛にあたる、侵略国を互いに攻める、というのが軍事同盟である。そうなると、A国如何で、日本が普通に戦争をする国になってしまう。

 日米安保も軍事同盟ではあるが、日本は守ってもらうだけでアメリカを守る義務はないから、日本としての武力の行使とは無関係である。

(3) 日本が、他国と軍事同盟を結び、その国のために武力を行使する、そんなことを日本国憲法が認めているはずがない。必要最小限の縛りも、自国のためのことなら基準になるが、わざわざ他国を防衛するのに、必要最小限などと言っても意味はないから、そもそも、必要最小限などという要件は無意味である。

 あるいは、安倍内閣としてはその域には至らなくても、憲法上の縛りをなくすのだから、次の内閣は、法改正だけで、集団的自衛権の名のもとに何でもできることになる。

(4) 集団的自衛権の容認は、日本が普通に戦争のできる国になるということである。憲法に縛られない日本国政府が自由に戦争をする、こんなおそろしいことはない。

 他国にいる日本国民の保護は、他国に委ねるしかない。日本近海等に、外国艦船の中に日本国民がいて、その命を守る、などというのは、それも日本防衛の範疇に含む等の解釈の変更でいくらでも対応できる。

(5) 憲法解釈を変えて、集団的自衛権の行使を認めるなど、決して許してはならないものと考える。


小松法制局長官が、「安倍政権の番犬」と言われて激怒したが、本当のことを言われるから怒るのだ。 [新安倍政権]

(1) 小松一郎法制局長官が3月4日、共産党の小池晃副委員長から国会で、「あなたは安倍政権の番犬みたい」と言われたことに激怒し、翌日の社民党首の質問の際に、聞かれてもいないのに「国家公務員にも、プライバシーや名誉に関わるものを含め、憲法上、基本的人権が保障されている」などと言って反論したとのことである。

(2) しかし、正しいと信じる行動を、我が身を犠牲にしてまで行うと、番犬のような態度になるだろう。裁判官は法の番犬、警察官は正義の番犬と言われて、名誉でこそあれ、侮辱とはなり得ないはずである。

(3) 要は、法制局長官たる者、内閣における法の番人であるべきところ、内閣の番犬となって法に吠えつけるようでことでは長官、失格である。小松長官とすれば、「安倍政権の番犬」のような仕事はしていない、と堂々と反論し、態度でもってそのことを示せばよいだけのことで、自らの名誉や基本的人権の話として怒るような指摘では全くない。法制局長官が、その憲法知識や識見を、立憲民主主義下での国家統治の問題ではなく、自らの公務員としての名誉についていくら力説しても滑稽でしかない。

(4) 要するに、小松長官は、図星を突かれたから怒ったのだろう。良心や信念に反する行動を取っているから、忸怩たるものがあり、反論できないから、辱められたと思うのだ。

 内閣が法を遵守する姿勢を無くしたのでは法治国家とは言えない。立憲政治とも言えない。小松長官の前記の態度は、安倍政権の遵法姿勢のなさが、極めてゆゆしき事態に立ち至っていることの象徴であると考える。


集団的自衛権を認めると、日本が、同盟国の侵略戦争に加担する国になる。 [新安倍政権]

(1) 安倍政権下で、現平和憲法の下でも、集団的自衛権が行使できるように、憲法解釈を変える閣議決定をしたい旨、安倍首相が言明しているが、不当である。そのような解釈は現平和憲法のもと、絶対に許されないというべきである。

(2) もともと政府の見解は、憲法9条は戦争放棄をうたっているけれども、他国から侵略を受けた場合に、国を守る自衛権は、自然権の最たるもの、生存権に基づくものであり、そのような、正当防衛的な権利まで放棄したとは考えられないから、そのために必要最小限の軍備を保持することは憲法に違反しない、というものである。

 これはあくまで、日本としては今後、絶対に戦争はしないが、万が一、日本が侵略されたような場合に、それに反撃するのは別問題である、ということである。日本は、今後、一切、戦争はしないのである。それが、戦争の放棄、憲法9条である。

(3) このことについては、平成13年12月から、小泉内閣のもとで始まった、「追悼・平和祈念のための記念碑等施設の在り方を考える懇談会」での議論が参考になる。つまり、同懇談会の中で、いかなる者を追悼の対象にするかについて、

追悼の対象は、国のために戦死した将兵に限られない。空襲はもちろん、戦争に起因する様々な困難によって沢山の民間人が命を失った。これらの中には既存の慰霊施設による慰霊の対象になっていない人も数多い。さらに、戦争の惨禍に思いを致すという点では、理由のいかんを問わず過去に日本の起こした戦争のために命を失った外国の将兵や民間人も、日本人と区別するいわれはない。

としつつ、 

戦後について言えば、日本は日本国憲法により不戦の誓いを行っており、日本が戦争することは理論的にはあり得ないから、このような戦後の日本にとって、日本の平和と独立を害したり国際平和の理念に違背する行為をした者の中に死没者が出ても、この施設における追悼対象とならないことは言うまでもない。

としているのである(平成14年12月13日の議論)。

 過去はともかく、日本は、絶対に戦争をしない国なのだから、日本の平和を害する行為をした者は必ず「悪」であり、同施設での追悼などに値しないことは明らかだ、としているのである。

(4) しかし、集団的自衛権を行使する場合はそうはいかない。たとえば、アメリカがイラクに戦争をしかけ、イラクがこれに抵抗して戦争状態になり、日本近海にいるアメリカ艦船にイラクの爆撃機から攻撃が加えられたような場合、日本は集団的自衛権に基づいてイラクの爆撃機を攻撃し、兵員を殺傷することも十分考えられる。

 アメリカには平和憲法はないから、アメリカは必要だと考えれば戦争を遂行する。その過程で現象的には他国がアメリカ軍を攻撃している場合、それがその国からすれば侵略に対する防衛行為の性格を帯びているとしても、日本は集団的自衛権に基づき、その国を攻撃することになる。しかしそれは、日本が侵略戦争に加担する、ということである。

(5) 日本は絶対に戦争はしない国なのである。自衛戦争はともかく、少なくとも侵略戦争は絶対にしない国なのである。それが日本が平和憲法を持っているということである。

 しかし、集団的自衛権を認めたとたんに、同盟国による侵略戦争に加担してしまう。罪のない、侵略を受けた他国を日本が攻撃し、その国民を殺戮することになってしまうのである。

 そんなことが許されてよいはずがない。少なくとも、現平和憲法下で認められないことは明らかである。集団的自衛権を認めると、日本が、普通に戦争ができる国になるというだけでなく、同盟国の侵略戦争に加担する国になってしまうのである。

 そんなことは決して許されないとともに、そんな大事なことが十数人の閣僚による閣議決定で決められてしまう、などということがあってはならないことは、余りにも明らかである。


衛藤・首相補佐官の、「安倍靖国参拝で失望」とした米国批判応酬、靖国神社の根本理解が違うのだ。 [新安倍政権]

(1) 2月16日、衛藤・首相補佐官は、自らのホームページにユーチューブを通じて、安倍首相が平成25年12月に靖国神社に参拝したのは、「国のために亡くなった方々に国の代表として慰霊申し上げる、改めて平和を祈念する、不戦の誓いをする」そういう純粋な気持ちで行っているのであって、米国の批判は心外だし、理由がない。こちらこそ失望した。中国を利して同盟国・日本を害するものである、などと発言していたが、2月19日、菅官房長官の批判を受けて撤回した。

(2) 思うに、安倍首相や衛藤補佐官と米国とでは、靖国神社に対する根本的見方が違うことがこの、「失望」の応酬の原因であると考える。

(3) そもそも、靖国神社に参拝して、「国のために亡くなった方々に国の代表として慰霊申し上げる、改めて平和を祈念する、不戦の誓いをする」(衛藤氏のホームページからそのまま引用)、あるいは、「すべての戦争で命を落とされた人々のために手を合わせ、冥福を祈り、二度と再び戦争の惨禍で人々の苦しむことのない時代を作るとの決意を込めて、不戦の誓いをした。」(平成25年12月の安倍首相参拝時の見解表明)などと言っても米国はそうは思わない。

 靖国神社については、米国政府としても当然、よく研究し、その成り立ち、存在意義、遊就館についても中身をよく知っている。そうすれば、靖国神社が、国のために亡くなった方々を慰霊する、というのは不正確であることは米国もよく判っているはずである。国のために戦死した兵士とそれに準じる方々を称えているのが靖国神社である。また、太平洋戦争を、正しい戦争だった、としているのが靖国神社である。

 日本は間違ったことをした、戦争の犠牲で死なせて、申し訳ないことをした、と英霊に対して首相が謝っているのではなく、正しい戦争のために、よくぞ命を投げ出された、と英雄的行為を称えているのが首相の参拝なのである。また、246万柱のうち、たまたま何柱からのA級戦犯が祀られているということではなく、A級戦犯を祀るのは前記の靖国神社の性格から来る本質的帰着である。

(4) 国のために命を投げ出した英霊を後世の首相が称えるのは、あるいは、邪険にし、放置したりしないのは、そうしなければ、国のために命を投げ出す若者が出なくなるからである。

 次の戦争に備える、次の戦死者発生に備えるのが靖国神社とその首相参拝であるから、安倍首相の行為が、平和の祈念、不戦の誓い、などということでは絶対にあり得ない。それは靖国神社の存在と矛盾することになる。

(5) 靖国神社では、太平洋戦争は間違っていなかった、と評価しているのだから、靖国神社で英霊に祈るのは、いざとなったら、今度こそ米英にも勝つために後に続くことを約束する、という意味も込められていることになるではないか。

 首相が靖国神社に参拝するということは、太平洋戦争における日本軍の行為を正当化し、国家として次の戦争に備えるということである。

(6) 安倍首相の、「すべての戦争で命を落とされた人々のために手を合わせ、冥福を祈り、二度と再び戦争の惨禍で人々の苦しむことのない時代を作るとの決意を込めて、不戦の誓いをした。」というなら、靖国神社ではなく、千鳥ヶ淵で祈るはずだろう、米国がそう言いたいのは、ケリー国務長官、ヘーゲル国防長官が、平成25年10月3日に、靖国神社ではなく、わざわざ千鳥ヶ淵戦没者墓園に参ったことから明らかだろう。

 日本の政治家は、少なくとも、米国の、靖国神社に対するそのような考え方を十分に理解した上で、靖国神社や、日米関係について論じるべきだと考える。


自衛隊から韓国軍への弾薬提供、緊急事態だ、という日本政府の説明が嘘なら、不当極まりない。 [新安倍政権]

(1) 国連南スーダン派遣団(UNMISS)に参加している陸上自衛隊から韓国軍へ弾薬が提供された。しかし、そのこと自体、極めて遺憾である。

(2) 日本は平和憲法のもと、あるいは平和憲法と関係なく、武器輸出(禁止)三原則を国是としてきた。武器輸出三原則は、自ら戦争はしないとしても、武器を提供して他国に戦争させるなどというのは、自ら戦争するよりも悪質である、あるいは、「死の商人」にはならない、という内外に向けての宣言である。

(昭和51年三木内閣の説明は、以下のとおりである。

 (一) 三原則対象地域については、「武器」の輸出を認めない。
 (二) 三原則対象地域以外の地域については、憲法及び外国為替及び外国貿易管理法の精神にのっとり、「武器」の輸出を慎むものとする。
 (三) 武器製造関連設備(輸出貿易管理令別表第一の第百九の項など)の輸出については、「武器」に準じて取り扱うものとする。

(3) 今回の措置はそれに反するとともに、PKO法においても、武器、弾薬の提供はしない旨、政府は一貫して表明してきたことにも反するもので、たとえ緊急事態とはいえ、今まさに相手から韓国軍が撃たれようとしているときに弾薬がない、ということでは人命にかかわる、などという場合にのみ、例外的に許されるというべきである。

(4) ところが今回は、韓国政府、国連を通じて日本政府に対しての要請があったということであるから、そんな二つの要請と日本政府の回答の時間的ロスを考えれば、韓国が自国から取り寄せればよかったもので、「韓国政府、国連、日本政府と順次連絡が行く緊急事態」というものが想定しにくかったものである。

 結局、安倍内閣による一連の、「積極的平和主義」等の、なし崩し的「戦争ができる国化政策」に利用されただけである疑いも強かった。

(5) それに加えて今回の韓国政府の発表では、「平和維持活動では、互いの協力で、現地で必要な物品の補充を受けることができる」と述べ、一般的な相互協力の一環であるとの認識を示したとのことであり、日本政府の国民に対する「緊急事態でありやむを得ない措置」という説明と全く異なるものである。

(6) 韓国政府が事実に反する発表をしているとすれば、緊急事態において他国から救済を受けておきながらそのことを否定するなどというのは、それはそれでとんでもない韓国政府の背信行為であるから、日本政府は、国連とも協力し、ことの真相を国民及び世界に対して明らかにする義務がある、というべきである。


石破幹事長の、特定秘密保護法反対デモの「テロ行為視発言」、民主主義を否定する為政者が国家機密を国民から隠す、こんな危険なことはない。 [新安倍政権]

(1) 自民党の石破幹事長が11月29日の自らのブログで、特定秘密保護法反対のデモで、議員会館に大音響が鳴り響いているとして、「単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思わる」と記載し、批判を浴びている。http://ishiba-shigeru.cocolog-nifty.com/blog/cat20628565/index.html

 今も議員会館の外では「特定機密保護法絶対阻止!」を叫ぶ大音量が鳴り響いています。いかなる勢力なのか知る由もありませんが、左右どのような主張であっても、ただひたすら己の主張を絶叫し、多くの人々の静穏を妨げるような行為は決して世論の共感を呼ぶことはないでしょう。
 主義主張を実現したければ、民主主義に従って理解者を一人でも増やし、支持の輪を広げるべきなのであって、単なる絶叫戦術はテロ行為とその本質においてあまり変わらないように思われます。

(2) たとえ、大音響で自らの考えを主張しようとも、それは言論の自由の範囲内であって、国民の最大の権利の一つである。それを、言論の自由や国民の権利と対極をなす「テロ行為」と同一視する、などというのは見当違いも甚だしいところである。

 デモ隊が国会や首相官邸に突入するような暴力的事態が生じても、それは、国民の抵抗権の行使と考えられるものであって、それでも「テロ行為」などとは全く異なるものである。今回は、全く、そこにすら至っていない。単に、「大音量で叫んでいる」だけなのである。どうしてそれが「テロ行為と本質的にあまり変わらない」のか。

(3) また、石破氏が与党の幹事長という、まさに、特定秘密保護法反対を叫ぶ人々の主張の相手方そのものである、ということも極めて重要である。他の人が言うならともかく、石破氏はまさに、デモ隊がその主張を伝えようとする相手方、与党首脳である。石破氏はデモ隊の主張を受け入れるかどうかは別として、国民の声として自らの政治行動において考慮すべきは当然である。

 ところが、国民がどんなに政府・与党に国民の声を届けようとしても、与党首脳はそれを、テロ行為的なものとしか考えない、というのではおよそ全く民主主義に反する状態である。

(4) さらには、デモ隊が叫んでいるものが「特定秘密保護法反対」という、「政府による民主主義の無視、弾圧の恐れ」についてのものだというのも極めて象徴的である。民主主義に反する言動を何ら恥じない為政者が国家機密を国民から隠し、機密に近づこうとする国民を重罰に処そうなどというのは危険極まりない。そんなことでは民主主義は破壊されてしまう。

(5) 暴力を伴わないデモ隊とテロ行為とは全く異なる。まさに真逆のものである。その違いが分からないような為政者が国家機密を国民から隠す法律を作ろうとする。こんな危険なことはない。

 安倍首相は、特定秘密保護法を通そうとする前に、まずは石破幹事長を更迭して国民に謝罪しなければならないと考える。