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亀岡少年無免許暴走事故判決、故意犯と過失犯を峻別し、この問題を冷静に考えて欲しい。 [刑事裁判問題]

(1) 平成24年4月、集団登校の小学生らに18才少年の無免許の車が突っ込み、10人が死傷した事件で、平成25年2月19日、京都地裁は被告の少年に5年以上8年以下の不定期刑を宣告した。

(2) 遺族は、危険運転致死罪の適用を求めたのに対して検察は、無免許下での、居眠りの過失事犯であって、危険運転ではなかったとして、自動車運転過失致死罪と無免許運転罪で起訴していた。

 危険運転致死罪は、危険運転、つまり暴走行為や、飲酒による酩酊運転を行う故意があって、その結果、人を死に至らしめる、ということが必要である。少年は無免許ではあったが、無免許運転を繰り返すことにより一定の運転能力が身に付いており、危険運転を行ったとは言えない、などと説明されている。

 これに対してワイドショーの識者などからは、無免許運転を繰り返すと違法性が小さくなるのか、などという批判がなされているが、失当である。無免許運転を繰り返すと、無免許運転の違法性は増すが、徐々に危険な運転ではなくなり、事故当時、危険運転罪に問えるほどの危険性は本件運転にはなかったというもので、検察の見解は正当である。

(3) 本件は、無免許運転の故意はあったが、危険運転の故意はない、事故についていえば過失犯なのである。過失犯と故意犯は、結果は多数の死亡事故ということで同じであっても、厳密に峻別して評価されなければならない。

 事故により人の死という結果が発生した場合、遺族にとっては決して許せない事態が生じていることは同じであるが、故意犯、過失犯、そして罪とならない場合があるのに、遺族感情に引きずられて、すべて同じように考えてしまってはいけない。

 福知山線脱線事故裁判などでも、遺族感情を前面に出した感情的な感情的な批判が多かったが、マスコミや社会は、これらを峻別して、冷静に考えて欲しい。http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2010-12-22-1 http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2012-01-11 http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2010-04-25

(4) 過失犯を結果の重大性から重く罰するということを続けると、過失犯の本質、つまり、たまたま最悪の結果が生じた場合が責められるが、結果の発生しない過失行為を規制しない限り、痛ましい事故は減らない、という事実に対応できなくなる。

 まずは、暴走行為や飲酒運転行為は、それ自体が極めて危険で、社会において存在してはならないものであるということに思いを致し、事故の発生、死傷の結果の発生の有無を問わず、暴走行為や飲酒運転行為があったというだけで、厳格に摘発した上で、もっと重罪に処すべきである。また、無免許運転も同様である。

(5) 遺族感情はともかく、社会としては、過失犯において、追及すべきは過失行為、つまり原因行為の客観的不当性であって、それによってこそ、過失犯、特に交通事故事案の発生を防止できるはずである。

 過失犯においては、たまたま発生したりしなかったしする結果ではなく、行為自体の客観的不当性を重視して、行為自体を重く罰する方向に変えるべきだと考える。