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英霊は、安倍首相に美化されても喜ばない。現在の日本による、反省と不戦の誓いこそが英霊の一番の望みである。 [戦後民主主義問題]

(1) 安倍首相は、終戦記念日の8月15日、都内で行われた政府主催の全国戦没者追悼式の式辞の中で、20年来の歴代首相たちが言及してきたアジアでの加害責任への反省について触れなかった。

 安倍首相は式辞で「貴い命を捧げられた、あなた方の犠牲の上に、いま、私たちが享受する平和と、繁栄があります。そのことを、片時たりとも忘れません」と戦没者に向けて語った一方、主にアジア諸国での旧日本軍の行為について歴代首相が述べてきた「深い反省」や「哀悼の意」などの表現を避けた。また同じく追悼式の首相式辞で慣例となっていた「不戦の誓い」も示さなかった。

(2) しかし、先の戦争で戦死した英霊は安倍首相から一方的に美化されても喜ばないと考える。戦没者が貴い命を捧げられた、その犠牲の上に、いまの平和と、繁栄があり、そのことを、片時たりとも忘れないということも、現在の首相の誓いとして重要なものである。しかし、それだけでは、特に、英霊の気持ちに応えることにはならない。

 英霊は心ならずも侵略戦争に加担させられた。アジアを中心として非常に多くの無辜の人々の命を「大東亜共栄圏拡大」の名のもとに奪うようなことを強いる結果となった。無辜な人を殺させられて、自らも命を失うということほど、悲惨なことはない。その後の国家は、まず第一に、そのことを英霊にわびるべきである。

(3) 靖国神社の英霊は、安倍首相の今回の発言にお怒りであると考える。本当は悲惨な殺され方をしたのに、そのことを明らかにし、責任者を追及すべき遺族が、比較的よい亡くなり方だった、遺族のためにいい人生だった、などと評価したのでは死者は死んでも死にきれない、ということになる。英霊の死を美化することは、英霊の死が、そのような極めて悲惨なものであったことを隠蔽するものである。英霊の死を美化することは、極めて悲惨な英霊の死を、大して悲惨なものではなかった、美しいものであったとするものである。それでは英霊の悔しい思いに全く応えないものと考える。

 犬死にをさせられて、悲惨極まりない死を、ある意味では好ましい死であったと評価しては、痛まし過ぎる英霊の死を、過小評価するもので、英霊に対する国家としての慰霊として極めて不十分である。

(4) かつて当ブログで論じたこともあるが、http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2010-08-16

暴力団に騙されて、無辜の人を殺させられて、その後、その人らから反撃をくらって死ぬ、というとんでもない悲惨な死に方をしたのに、ちょっとした事故で死んだかのようにしか評価されず、悲惨な死に方をさせた責任者の責任も追及しないようでは、死者の悔しい思いに応えられていないことは明らかであろう。

 現在の首相が、現在の日本を代表して、過去の日本の侵略戦争を反省し、二度と同じ過ちを繰り返さないと誓うことにより初めて、そのような英霊の悲しみを癒やすことになると考える。


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