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3人殺傷の少年、仙台地裁の裁判員裁判で、死刑を下すべきではない。 [刑事裁判問題]

(1) 2010年2月、宮城県石巻市で当時、18歳の少年が元交際相手の女性の家へ押し掛け、女性の姉ら2人の女性を殺害し、男性1人に重傷を負わせ、元交際相手の女性をその後も連れ回した事件の裁判が仙台地裁で行われ、11月19日、死刑が求刑された。

(2) 検察側は、この少年が、保護観察中にこの事件を起こしていることを重視し、凄惨かつ残忍な事件で、この少年に更生の可能性はないと主張し、光市母子殺人事件で最高裁が死刑を選択していることなども引用し、また、永山基準なども指摘して、死刑に処することを主張した。

(3) 確かに、過去の裁判官による裁判の基準、判例の基準をあてはめると、死刑は免れない事件のように思われる。

 しかし、今回は、裁判員制度で、少年に死刑が求刑された初めての事件である。市民の感覚から、この少年に更生の可能性はないのか、死刑しか選択の余地はないのか、考えて頂きたい。

(4) たった18年間で、人間はどこまで成長、成熟できるのだろうか。中には、人間の尊さ、人を殺してはいけない、という規範を理解できずに18歳になる少年もいるのだろう。

 しかし、それは、少年をそのようにしか育てられなかった、親や社会の責任であって、少年の責任は小さいと言わざるを得ないのではないだろうか。

 20歳を過ぎれば、そこから先は、どんな環境に生まれようと、どんな育ち方をしようと、自分で、社会的相当性をもった存在になっていく義務がある、ということだとしても、18歳の少年に、そうなれなかった責任を問うというのは、では一体、何歳の頃に、どういう心がけを持つべきだった、どういう自己鍛錬をして、「凶暴な自分」をどのように是正していくべきだった、というのだろうか。

 普通は、成人式の時、二十歳の時に人は、これからは大人として、責任をもった活動を求められる、というのが通常なのである。その2年前の18歳の時に、命をもって罪を償え、というのは、責任が重すぎるのではないだろうか。

(5) そのような検討もなく、まさに、18歳が犯した殺人の結果だけを見て、有無を言わせす社会から抹殺する、死刑の判決を下す、というのは反省や成長、成熟の機会を得られずにそこまで育ってしまった少年に酷であると考える。

 あるいは、検察官は、更生の可能性がない、と言う。しかし、どうしてそんなことを断言できるのか、更生の可能性があったのに、あと20年もすれば、立派な考えを持った一人前の大人になったかもしれないのに、その前に命を断ってしまって、その可能性を奪う、「更生の可能性がない」などと、何の根拠があって言えるのか。そんなことは断言できないことは明らかであろう。

(6) 裁判員は、被告人の少年のこれまでの18年の人生について、どこが、どう悪かったか、18歳の少年が起こした殺人事件について、彼をそのように育てた親や社会の責任ではなく、彼自身の責任をどうして問えるのか、ということ、また、たった18歳の今から、何十年も経って死刑以外で死ぬまでに、更生する可能性はないのか。今とは別人のような、立派な大人になる、その可能性を断って、そうなる前に少年の人生をそこで終わらせてしまってよいのか、考えてもらいたい。

(7) 裁判員制度では、過去の、職業裁判官による裁判の判例は、参考程度でしか無いはずである。国民すべてが、自らのこととして、裁判のこと、犯罪のこと、被告人のこと、死刑のことを真剣に考えて、結論を出さなければならない。


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