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「天皇は神で、天皇のために死ねば君も靖国神社に神として祀られる。天皇陛下万歳と叫んで、喜んで死んでこい」、と言われて心ならずも戦陣に散った英霊たちを、靖国神社ではなく、故郷のお墓で安らかに眠らせてさしあげよう。 [戦後民主主義問題]

(1) 平成25年4月の春の大祭に、麻生副総理が参拝し、また多くの与党議員らが参拝したことについて、中国と韓国が批判したのに対して安倍首相は、「国のために死んだ人々を祀るのはその国の自由で、他国の脅かしに屈することはない」などと国会で答弁し、これに反論している。

 しかし、そもそも先の大戦で戦地に送られて戦死した英霊たちは、「天皇は神で、神国日本は絶対に戦争に負けず、天皇のために死んだら靖国神社で神になるのだから、喜んで死んでこい」と言われたが、天皇は神ではなく、日本も神国ではなくこの戦争はアジアの人々に多大な迷惑をかけた、ということについて、騙された、天皇と靖国神社に騙された、子孫たちは二度とそれらに騙されないでほしいと思っておられるに違いないと考える。

(2) 靖国神社にA級戦犯が祀られていようがいまいが、靖国神社とは、宗教により若者を、たとえ間違った戦争にでも平気で命を捧げさせる国民洗脳組織そのものであって、いつまた何時、同様の組織として時の政権が再び利用しないとも限らないものであり、戦後の新しい社会で性格を変えて、平和を祈念する施設に変容する、などということもあり得ないものである。

(3) とはいえ、最愛の肉親が戦死し、靖国神社に祀られている、と信じて靖国神社に参拝することは信教の自由であってそれを妨げるものでは決してない、というだけのものであり、大臣その他、政府の関係者が積極的に靖国神社に参拝する、などというのは、前記のとおり、英霊の意思にも反するもので、現代の政治家の行動として、間違っていると考える。

「国のために命をささげた方々に尊崇の念を表すことは当然」ではあるが、その場所は、決して靖国神社ではない。

 以下に、08年10月17日の、「靖国神社批判」の当ブログを再掲する。

http://kentaro-0013.blog.so-net.ne.jp/2008-10-17-1

靖国神社は、神国日本、神たる天皇、国家神道を支えた中心施設で、明治政府が、若者を、国のために喜んで死ぬように宗教教育を行う上での中心施設であった。国のために死ぬことを無闇に否定する立場には立たないが、国のために死ぬことそのものの意義を教育するのではなく、宗教の力で、死を恐れなくさせて、国のために死なせる、などというのは、卑劣極まりないことであろう。しかも、元々国民に根付いた宗教ではなく、明治政府が国家体制確立のために、いわば特別に普及させた宗教であることからすればなおさらである。
 それらを前提に、靖国神社を信奉する人に、3つの疑問がある。
(1)憲法などを持ち出すまでもなく、宗教を、国防や国家施策の手段としてはいけないのではないか。アラーの神万歳と叫んでツインタワーに突っ込むことと、天皇陛下万歳と叫んで空母に零戦で突っ込むことと、その精神構造に共通点は多い。
(2)野中広務氏らの言うように、国のために死ねば靖国神社で神になるから喜んで死んでこい、というのは嘘で、だまされて死んでいった英霊たちは、靖国神社で当時の為政者を恨んでいるのではないか、という思いをどう思うか。
(3)今後も、戦死者の慰霊施設を、靖国神社のままとするのか、そうすると、自衛隊員に、国のために死ねば神になる、という宗教教育を行うのか。
 国のために死ねば神になる、などという、古来の宗教や人々の自然な思いとかけ離れた宗教教育は、近代国家において絶対に行ってはならないものであり、靖国神社は、まさに、本質的にその施策のための施設である。その意味で、近代国家における平和の施設になど変容しようのないものである。 
 人は死ぬと灰になるのである。悪いことをせずに死ねば天国へ行ける、などという自然的宗教とは別に、国家のために死ねば神になる、などと、とんでもない非科学的な教育を施してよいはずがない。
 それでも、息子が祀られている以上、どうしても参拝したい、という遺族の宗教心までは押さえられないとしても、靖国神社は、その意味でのみ、かろうじて存在が許される施設であって、それ以上の存在になってはならないものである。
 そのことは、A級戦犯の合祀とは特に関係の無いものであって、私は、野党指導者までが、A級戦犯が分祀されれば首相の靖国公式参拝を認めてよいかの発言をしているのが、全く信じられないものである。